5月 312013
 

地方によって微妙に歌詞が異なるそうだが・・・

かごめかごめ
籠の中の鳥は
いついつ出会う
夜明けの晩に
鶴と亀が滑った
後ろの正面だーれ

 
・かごめかごめ・・・加護女加護女=加護の女、加護の女=マリア様、マリア様
・籠の中の鳥は・・・籠に捕らえられた鳩は
・いついつ出会う・・・いつになったら出会えるのか
・夜明けの晩に・・・夜明けは「暁=アカツキ=赤月=RED MOON」、晩は終わる時もしくは日本が夜明けの時間に夜である場所つまり地球の裏側
・鶴と亀が滑った・・・「鶴=千年=千代=千歳、穢、千鳥、白山」、「亀=万年=万歳=万世、亀甲=六角」、滑ったは終わる時もしくはスペイン語の「SUBIR=昇る」
・後ろの正面だーれ・・・? 文字通り真後ろにいる人?

 
「魔法少女まどか☆マギカ」の鹿目まどかと暁美ほむらは、白い鳩と赤い鳩に当たるか?ほむらは「赤いリボン」を付け「ほむら=炎」であるが・・・。赤い鳩がインドからイランの方角へ飛び立ち、そこで拝火教になったという意味だろうか。ゾロアスター教の鳥葬はプロメテウス神話と対応するし、プロメテウスは火を与えてくれた神だ。その拝火の火をずっと絶やさずに、いつか赤白の鳩が出会える日を待ち続けているのだろうか。また、救済の概念というのはマリア様のことだろうか。ピンク色の髪とは桃色の髪で、桃というのは善いイメージがある。三国志の桃園の誓いしかり、桃源郷という言葉しかり、桃太郎しかり。桃=百(もも)で百済のことだ。つまり聖武天皇の妃である光明皇后もある意味マリア様だといえる。あれは百済仏教の影響下だからだ。
ついでに書くと、上の『滑ったは終わる時もしくはスペイン語の「SUBIR=昇る」』であるが、これは「終わるか、悔い改めるか」の二者択一だ。終わるは文字通り終わりだが、SUBIRなら悔い改めて上昇する、という意味になる。もしくは、日本語を使う者は終わりで、スペイン語を使う者は上昇する、という意味かな?それなら前者は滅びるということだ。後者は、こないだスペイン語圏のアルゼンチン人がローマ教皇に就任したので、上昇するということかな?そのダブルミーニングかもしれない。

5月 272013
 

先日から在宅で出来る仕事を始めてみた。ちょいとした文章を書く仕事。まーどんだけ稼げるかわからないし期待したほどは上手く行かないかもしれないけど、とりあえずやってみる。何せPC関係でだいぶ散財しちゃったからな。文章書くのは得意だし、続けてみることにする。
スカイリムは継続中。FSXもやってる。あとはCS:GOとスパ4AEとGUNMETALってのを主にやってる。それとたまにネトゲ。「一日こんだけはゲームをする」となかば義務感になってるのが困りものだが。ボケッと音楽聴いてることが多いからな、最近。
しっかし、薩長土肥ってのが今でもあったってことに驚きだ。しかも肥前藩がフェードアウトするのまで明治時代と一緒。そういや、大隈重信先生が創立した早稲田大学、俺も浪人の時に受けて落ちたな~。まあ元々国立に行きたかったし、第一志望に受かったから別に落ちてもガッカリしなかったけど。先日安倍首相が、俺の母校に視察に行ったってTVでやってて、母校のパネルを後ろに記者会見してたので、ちょっといやかなり嬉しかった。いろいろろくでもない目に遭った大学時代ではあったけど、一応俺の母校だし腐っても一流国立大学だからな。佐賀肥前藩の血を引く者として、当地方一の国立大学出身であることは、とりあえず誇らしい。いつか凱旋して故郷に錦を飾りたいものだ・・・と10年間思い続けていることは秘密だ。
肥前藩士がフェードアウトしても大隈重信は生き残ったが、俺もそうありたい。というわけで希望の歌。Check it out!

 

5月 212013
 

昨年の暮の一連の出来事がなんだったのか、未だによくわからない。南米にいた時の最後の一連の出来事も、なんだったのかよくわからない。もちろん「こういうことなんだろうな」という憶測はあるが、それを公言したら「妄想だ」と片付けられるだろう。だから言わない。
俺はPCゲームが好きだが、ゲームの規模が大きければ大きくなるほど、開発スタッフの数も増える。今のゲームは制作費も半端なくかかっており、それにつれてスタッフの数もケタ外れに多い。それを踏まえると、物事の規模が大きければ大きくなるほど、関わる人は増えていく、当然だが。南米の時と去年の暮、どんな出来事が起こっていたのか、それは俺の想像の域を出ないが、想像通りなら、多くの人が関わっていたんだろう。そして今もそうなのかもしれない、わからないけど。
全知全能の人間なんていない。特に知識に関しては、全知の人間なんてのはいない。知識というのは、みんながそれぞれ断片的に持っているものだ。だから皆が集まって、その知識をお互い補完しながら、物事を進める。そう考えると、俺が持っている知識も何らかの役には立ったのだろう、間違いなく。知識を隠し独占することが支配の基本であるから、もしそれを打ち破ろうとするならば、断片を持っている者たちが協力して、その知識をできるだけ「完全」に「近づける」ことが必要となる。その「知識の独占」を計り知識を隠す行為が、結局グノーシスの根幹ということだ、ろう。
俺は14歳の時に現在住んでいる土地に引っ越してきて、地元の中学校に編入した。その14年後の28歳の時、大学を卒業して実家に帰ってきた。そしてその14年後は、厄年である。10年前にバイト先で、人生で出会った中で最も美しい女性と会ったが、彼女は今年29歳か・・・。あんなに奇麗な女性が職場にいてもろくに会話すらできない俺のヘタレ具合には、我ながら呆れるばかりだ。また会えたらと夢に見るばかりである。まあ常識で考えてとっくに結婚してるだろうけど・・・。・゚・(ノД`)・゚・。

5月 172013
 

去年のセールで買ったスカイリムようやく始めたけど、やべぇ面白ぇw。俺好みな硬派なスタイル、自由度の高さ、かの名作バルダーズ・ゲートをやった時を思い出しそうになる。MOD入れないでバニラでやってるけど、十二分に面白い。マップも広いしNPCもいっぱいいてちゃんと生活してるし、やっぱ洋ゲーはすげえわ。敵と戦闘する時のフィニッシュムーブなんかマジいいアイデアだな。
んで同じく昨年買ったFSX、これのミッションは、完全日本語版なので当然日本語音声で喋ってくれる。俺はMSFS2004の頃からずっと、チュートリアルもやらないでただ漫然と飛んでるだけだったが、ちゃんとブリーフィング受けてミッションやると、当然だがキー操作も熟知するし、イコール細かい計器操作が可能なFSXを100倍楽しめる。これはやらないと損だわ、ミッション。MSFS2004は「FSX買っちゃったし、いーらね」ってこないだヤフオクで売っちゃったけど、ちょっと勿体なかったな。けどまあその分FSXはやり尽くそう。このシリーズの最終作だろうしな。いやーこれもいい買い物したわ。
それとスパ4AEは、PS2型ゲームパッドだとややボタン数も少ないし、アケコン使ってる連中には歯が立たないが、それでも充分面白い。かつてゲーセンに籠ってスト2Xやってた時代を思い出す。これも欧州版で格安だったし、いやーいい買い物だったな。あとは無料ネトゲとかエ◯ュだけど、ぼちぼち楽しんでる。まあせっかく金払って買ったゲームがあるんだから、そっちを優先すべきだろう。ついでに過去の名作も幾つかインスコしてあるし、かなりPCゲーマーとして充実中だ。
とりあえず現在ダイエット進行中なので、キリのいいとこまで痩せたらバイトでも探そう。俺の愛(?)車・XR250ちゃんにもたまには乗らねば。今キャブ不調なのでオーバーホールせにゃあかんかな~。困った困った。それとさっき何となく「猫でもわかるプログラミング」を見てたら、プログラムの勉強をもう一度やりたいなあとちょっとだけ思った。思い起こせば10年前にC言語を勉強しようと思い立ち、「独習C」を読んだのだった。その後「やさしいC」も読んだな。共にDOS窓でコチョコチョ動かすくらいしかできない内容だが、今からまた勉強して、スタンドアローンのWin用アプリとか作れるようになるかなあ?HTMLとCSSの知識はあってもあれはマークアップ言語だし、それならPHPでもやったほうがいいのだろうか・・・。う~んまあ、趣味としてCとかC++をやってみるのも、負け組人生の糧としてはいいかもな! 🙂

5月 142013
 

俺は教会に通っている。正確に言うと、たまに礼拝に行く。思い起こせば、10年前、何となく行き始めた。当時「ろくなことがないなあ」と思い、「けど神様っているはずだよなあ」とも思い、家の近くにある教会に、ふらっと行き始めた。礼拝は日曜日の朝10時半からなので、早起きが嫌いな俺は正直めんどい。だから本当に気が向いた時にだけ、礼拝に行くようになった。んで「せっかくだし」と思い、気軽な気持ちで洗礼も受けた。
礼拝には牧師の説教というのがあるが、正直俺はあまり真面目に聞いていない。また賛美歌もめんどくさいのであまりちゃんと歌っていない。あと礼拝式文という礼拝の台本みたいなのがあるが、それに載っている文言もちゃんと発音していない。俺は特に、この礼拝式文というのが気に食わない。なぜなら、その内容が『間違ったことを発音させるための』内容だからだ。「我々は生まれながら罪深く、穢れに満ち」とか「みたみイスラエルの栄光です」とか「ポンテオ・ピラトの元に苦しみを受け」とか、明らかにおかしなことが多く書かれている。「我々は生まれながら罪深く~」というのは明らかにグノーシス的な文言だし、「みたみイスラエルの~」というが我々はイスラエル人に忠誠を誓っているのではない。また映画「パッション」を観ればわかることだがポンテオ・ピラトは賢人だった。悪いのはイスラエル領主ヘロデ・アンティパスとパリサイ派に扇動されたイスラエル人民衆だ。要するに俺の教会の礼拝式文には、ユダヤ人にとって都合のいい内容を我々信徒に発音させるための文言ばかり書いてある。だから俺は、礼拝の時ほとんどちゃんと発音していない。
パラグアイにいた時、“自称”宣教師である人物と知り合った。彼と話していてわかったが、日本のキリスト教徒の中には、自分たちがユダヤ人の末裔であるという自覚を持って生きている者が確実にいる。そしてそういう新興宗教も存在する。ある時彼と話していたら、彼は「イエス様は、僕達にもう一度会いに来てくれるんですよ!」と目を輝かせて言った。それは本当に疑いなくそう思っている目の輝きだった。だから俺は「だって2000年前に一度会いに来てくれたんでしょ。だったら次に来る時は、おまえらは一度言ってもわからんようだからもう滅ぼしてやるーって来るんじゃないですか」と答えた。すると彼は目を輝かし「いやとにかく、もう一度会いに来てくれるんですよ!!」と言った。この男はパラグアイがどんな国なのかわかりすぎるほどよくわかっていて、それで尚そこに溶け込もうとしている人物だった。ある時彼は俺にこう言った。「パラグアイは本っ当にどうしようもない国なんだ!!けどそこで生きていくためには、仕方がないんだ!!皆そうやって生きているんだ!!」 彼がこう言った時、俺には「悪魔の歓喜」に見えた。
キリスト教で、イエスが「悔い改めよ!」と言ったという。この台詞はとても有名であり、イエスの代名詞とも言える。けれど実際には「REPENT!」なので、「後悔せよ!」である。そう、イエスは元々「改める」チャンスなど与えてはくれなかったのだ。ただ「悔いよ!」とのみ言ったのだ。それは、前述の“自称”宣教師を見ていればわかる。彼は多分、どんなに汚れていても、再び神様が現れて浄化してくれるから許されるのだ、とか、まーわからんけどそういう都合のいい考えを持っているんだろうね。そして「自分たち」ユダヤ人は迫害されているとか思い込んでいる。実際には、ただ嫌われているだけなのに。
聖書の一番最後に載っている「ヨハネの黙示録」に、アポリオンとアバドンというのが出てくる。これは俺はわかっているが、正義の太陽神アポロが、腐った奴らを奈落に叩き堕とすのだと、そういうことだ。イエスが現れた時、イスラエルはローマ帝国の統治下にあった。そのローマの最高神アポロが、腐った者どもを奈落に叩き堕とす。それがアバドンだ。ではその腐った者というのは、一体誰なんだろうね。

5月 062013
 

誰にだって、人生がある。そして平坦な人生なんてものは、無い。どんな人の人生にも、坂もあれば壁もある。もちろん人によってその強弱は異なれど、平坦な人生なんてものは、無い。
そして僕は、困難な人生だと思う。「何でこんな目に」と思うことはたくさんあったし、昨今も同様だ。はっきり言って僕は、「貧乏クジをひく役」だろう。他の人を見ていると、楽でいいなあと思うことは多い。ほとんどの他人は、僕のことを苦労してないとか、いい加減だとか勝手に思っているかもしれない。けれど実際には、僕はいろいろ大変だった。努力もさせてもらえなかったし、今は今で三十路ニートとか・・・。人一倍「努力したい、させてもらいたい」と思い続けて、気がつけばもういい歳である。

高校の頃柔道を始めて、とても面白いので夢中になった。高校時代は勉強は一切やらず、部活のことばかり考えていた。僕はケンケン内股に凝っていたので、TVで吉田選手とか田辺選手の試合を見て、ビデオをスロー再生して見たりしていた。あとは大外刈が得意だった。高校2年の時県大会に団体戦で出た時、初戦で次鋒で出場し3人抜いたが、あれが僕の最高の成績だったなぁ・・・。当時の顧問の先生は早稲田の柔道部の出身だったが、ある日その人が真面目な顔をして、静かに「おまえは適当に練習してるけど、本気出してやれば地区大会くらい簡単に優勝できるくらいの才能があると俺は思ってるよ」と言った。

高校3年の終わり頃、近所の古本屋に行くと、ある本が目を惹いた。それは八切止夫とか鹿島昇の書いた古代史の本で、手にとって捲ってみると、変わったことが書いてあった。すごく興味が湧いたので、即座に買って家で読んでみた。高校生にとって彼らの本はものすごく刺激的だったので、僕は「歴史学にはこういう考え方もあるのか」と興奮して、それ以来古代史のことが頭から離れなくなった。だから大学に入ってもそういう異端的な古代史の本を多く読んでいた。大学は福岡市にあったので、紀伊国屋とか丸善とかショッパーズの本屋でそういう本を探したり、また古本屋を見つけて本を探すこともあった。大学ではインド哲学科に所属していたが、僕は皆に「哲学には興味ありません」と公言し、教官にも「サンスクリット語やるよりもっと役に立つ講義をしてくれ」と頼んだ。そしたら学部3年の時、英語の論文を読むという形に変えてくれた。僕はなぜか、欧米語とサンスクリット語を音で聞き分ける能力に長けているらしく、例えば「sarpa=serpent」だと言い当てたり、「vac=voice」だと言い当てたり、「loca=location」だと言い当てたり、そういうことが何回もあった。それに僕は一方的に話を聞く授業はつまらないと思っていたので、教官に自分の考えを話して解説を求めるようなことが多かった。そうしたら、ある時教官は「・・・それだけ勉強してるなら、大したもんです」と、静かに言った。僕はこの教官に褒められたことを、今でも誇らしく思う。

これまでの長い時間で、僕が自分の才能と能力を正当に発揮して、正当な結果が得られていたならば、今頃どうなっていただろう。そりゃもちろん、自身の努力が足りない部分だってあったが・・・それと意地も。「たられば」は歴史においても人生においてもあってはならないものだが、僕は「貧乏クジをひく役」だったので、未だに何の結果も得られていない。もういい歳だし、これから・・・。