4月 172013
 

最近なんだか興味が湧いたので、エヴァンゲリオンの新作映画の序と破を観てみた。90年代版とこれら2000年代版では、いくつか異なる点があったが、それを考えるといくつか興味深い点がある。それについてさらっと書こう。
まず、90年代映画版では、シンジの両掌に傷ができるのを機に、世界崩壊が始まった。つまりシンジを新しいイエスとして生贄に捧げることが、世界崩壊(再構築?)の条件だったということになる。しかし2000年代版の破では、空中から落下する使徒を受け止めた時に両掌を貫かれる。つまり「日常の中で両手を貫かれる」。その後もシンジの日常と世界は続いているので、世界がシンジの生贄を機に崩壊することはない、ということだろう。つまりシンジはその時点で生贄になる宿命からは逃れられたので、彼は救われたということだ、ろう。
それと90年代映画版では、アスカが量産機に目を貫かれて片目(一つ目)になるが、これは「貫かれる」ので、彼女が犯されるのと同義だろう。そしてラストシーンでは、シンジと彼女の二人だけが生き残った世界になっている。世界は崩壊してしまっている。けれど2000年代版の破では、3号機にアスカが乗り、そのエントリープラグを初号機が噛み砕く。この後彼女は登場しないが、次作Qの予告で片目になって登場しているので、おそらく噛み砕かれた時に失明したのだろう。つまり、彼女を「犯す」のは、シンジ自身だということになる。そして予告を観る限りでは彼女は元気に戦っているようなので、こちらも世界崩壊の心配はない、はず(Qを観てないので何とも言えんが)。つまり2000年代版の序と破を観れば、90年代版のようにシンジとアスカのみが生き残る「世界の崩壊」は免れたんじゃないか、と俺は短絡的に考えた。
俺は一般人なので世界情勢のことなど氷山の一角以下のことしかわからないが、そういうので詳しいサイトとして田中宇という人のサイトがあり、割と有名だと思う。以前そこを見たら、「イスラエルは予言を成就させるために、そこに至るプロセスを意図的に早く起こし、成就へのスピードを早めようとしている」と書かれていた。それがどんな予言なのか、もう書いてあった内容を忘れてしまったが、イスラエル(ユダヤ人)は、そういう考えを持っているらしい。だから90年代版と2000年代版で内容が異なるのは、そういうのも関係あるのかな、と思う。俺の印象では、エヴァンゲリオンは最初から10年プロセスで90年代版と2000年代版の両方を作ることになってたんじゃないか、とも思う。本当にこの作品には、謎が多い。一体何のために作られたんだろう?
付け加えておくと、民俗学において「一つ目」というのは製鉄のシンボルで、タタラ製鉄の際に燃え盛る炎を片目で見続けるため片目が見えなくなるからだ、と言われる。現に「一本ダタラ」という言葉もあるし、西洋でもサイクロプスは一つ目の巨人だが、製鉄の神である。そして俺が住むこの千葉市で製鉄が盛んなのは、蘇我なのだ。これは一体何を意味するだろう?

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