6月 132013
 

最近、卒業した大学の所属研究室に電話をかける機会があり、かけてみて「◯◯年卒業の◯◯という者ですが」と言ったら、電話に出た女学生が「噂の空白期間の・・・!」と言っていた。「噂の空白期間」というのは笑えるな。そう、俺が卒業する年度だけ、あの研究室には教授も助教授もいなかった。その後研究室のまとめ役と話したところ、「そういう時期だったから」と苦し紛れに言っていた。バカバカしい。

人と人間の違いなんてのはどうでもいい。人というのは、単純に自分の能力を高めることにのみ注力すればいいのだ。そこで他人を低めて相対的に自分が高くなろうと画策するならば、それはただの時間の無駄で、バカのやることだ。
幸福と不幸の関係もそれと同じだ。人は皆、自分の幸福を追い求めることだけ考えればいい。自身の絶対的な幸福度を上げることのみを考えればいいのだ。もしそこで、幸福という概念を相対的なものだと考えるならば、他人を不幸にしてその結果自身の幸福度を相対的に上げようと考えるだろう。ここが人としてどうであるか、という分岐点だ。
程度の低い者は、能力にしろ幸福にしろ、絶対的な要素が低いので、相対的にそれを上げようとする。その行為が、正常な人々にとっての足枷となり災いとなる。要するに北朝鮮みたいなもので、言ってしまえば「人類の敵」だ。パラグアイにいた時も思ったが、こういう相対的に自身を高めようとする者は、どこにでもいるようだ。その結果として自身は低いままであるのも、どこでも一緒だ。それは個人の問題だけでなく、団体であろうが組織であろうが国であろうが、何でも同じだろう。

そして、ジグムント・フロイトが言ったように「人は組織の力によって強いのではなく、個人の意志の力によってのみ強い」のだ。この世の真理は、これ以上でも以下でもない。

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