10月 252016
 

ノーベル賞をボブ・ディランが受賞したことが話題になっているが、俺はずっと長いこと、「死ぬまでにノーベル賞を獲る!」と思っていた。俺の専門は古代史で、大学では哲学科だったのだが、そういう分野で受賞することがあり得ないとわかるまで、ずっとノーベル賞を獲るんだと心に決めていた。
3年前、俺が叔父にメールを書いてその結果世界が変わった時、俺は思った。「ああ、どんなに頑張っても、賞とかを受けることは無いんだな」と。俺のお陰でアルカイダの親玉がイエメンだとわかっても、イラン問題が進展しても、天皇が死んだら火葬にすると発表しても、いろいろあったが、結局何らかのプライズを受けることは無いのだ。そこに気づくまで長いことかかった。
俺は確かにでかいことをやった。けれど世の中というのは、功績が正当に評価されないことの方が多いのだ。ノーベル賞にしても、功績に比例して正当に受賞してるとはいい難いし。俺のような「名も無き無名戦士」はいっぱいいて、でかいことをやっても皆に知られずそのまま消えていく者はいっぱいいるのだろうね。果たしてこの世の中で、俺がどれだけのことをしたか、その功績について知る者がどれだけいるのだろう?
「事実が大事」である。俺のやったことは確かに皆の知る所ではない。けれど俺が天才だということは、事実として、ある。俺は自分が天才であることを、事実として、歴史に刻んだ。歴史は知っている、俺が天才だという事実を。エジソンのように他人の発明を盗んで名声を高めても意味はない。テスラのように冷遇されても自分が天才だと名を残す方が、よっぽど価値がある。
歴史は知っている、俺が天才だと。そこに気づいてから、ノーベル賞を欲しいなどとは思わなくなった。仮に俺のやったことが何処かで評価されて、何らかのプライズを受けるようなことになったとしても、俺は辞退するだろう。サルトルだってそうだった。事実が大事なのである。俺は天才である、それでいいではないか。
世の中が今こうしてある、そこには、少なからず俺の功績がある。たとえ誰も知らなくても。

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