9月 242017
 

俺は日曜日の朝、教会の礼拝に通っている。毎週ではないが、2週間に一度行くようにしてきた。けれど最近は、行くのがとてもめんどい。日曜日の朝というのもゆっくりしていたい時間だし。
そもそも、俺は別にキリスト教を信じているわけではない。うちも例に漏れず仏教徒で、宗派は浄土真宗だが、大学でインド哲学科にまがりなりにも所属しインドのことを勉強して、更に寺の連中と直に触れ合ったため、仏教がすっかり嫌いになってしまったのだ。そのため「仏教よりはマシかな」と思い、キリスト教会に通うようになった。
もう10年以上前に洗礼も一応受けたので、傍から見れば立派なキリスト教徒である。けれど俺は、その礼拝の中にも疑問を抱くような要素があるので、盲目的にキリスト教徒であろうとは思っていない。例えば礼拝式文の中にいろいろ「?」と思うような文言がある。「みたみイスラエルの栄光です」とか「私たちは生まれながら罪深く汚れに満ち」とか。どう考えてもこの礼拝式文というものは、ユダヤ人が我々信徒に自分たちにとって都合のいい文言を発音させるためにあるのではないか、と疑念を抱かざるをえない。
はっきり言うが、俺はユダヤ人が大嫌いである。だからそのユダヤ人が我々に言うことを聞かせるための方便と化している、現在のキリスト教を無為に信じる気にはとてもなれない。けれど教会に来ている信徒たちを見ていると、皆何の疑問も抱かずに礼拝式文を読み、賛美歌を歌い、祈りを捧げている。何の宗教でもだが、仏教だろうとキリスト教だろうと新興宗教だろうとだが、何も考えず疑問も抱かず、ただ盲目的に信じているのは、全て等しくバカである。そういう意味では、俺は教会に来ている連中をバカだと思っている。俺の通っているのはルーテル教会だが、そもそもルターの宗教改革そのものが、既存のキリスト教に疑問を抱いたところから始まったのではなかったか。そういう歴史も振り返らずに、ただ盲目的に牧師の言うことをハイハイ聞いてるだけというのは、やっぱりバカだろう。
要するに、キリスト教なんてものは、ユダヤ人の支配のための道具にすぎないんだろうね、ある意味。それはわかっていても、イエスさんの生き様には共感できるところが無くはないので、今後もたまに教会へは行くだろう。聖書の文章には興味深い記述も多いしな。頭の腐った聖職者も直に数人接したことがあるが、今通ってる教会にはそういうのはいないので、それは安心だ。けれど繰り返すが、俺はキリスト教を信じてはいない。だから洗礼を受けたからといって「クリスチャンです」とは答えない。俺が信じているのはただ一つだけ--「神」だけだ。

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