8月 222018
 

『俺は何でもできるはず』・・・こういう「根拠のない自信」は、俺に今でもつきまとっている。普通中高生くらいの時には誰でもこういう考えを持ち、大学である程度挫折して、就職して払拭されるのが一般的であろうこういう「根拠のない万能感」は、俺のように一般的でない人生を送った人間からはなかなか消えてくれない。
俺は別に一般的な人生を送りたいとは思っていなかった。大学でも哲学科に所属し、就職とか先のことはあまり考えていなかった。「いつの日か何かデカイことをやりたい」、そういう思いをずっと抱き続けてきた。そのための積極的な努力をしたかと言われると返答に苦しむが、とにかく俺は、手塚治虫の「火の鳥」に出てくる猿田博士のような、優れてはいるのに世間から笑いものになるような、そういうエキセントリックな人物になりたいと、ずっと思っていた。
俺の特徴として、「諦めが悪い」ことがある。俺は大学時代からず~っと、古代史のことを考え続けてきた。自分で古代史の謎を解くんだと、その思いをず~っと心に抱き、大学卒業後もちょくちょく本を読んだりして、考え続けた。そして南米に行っている時、ふと思いたちそれまでの考えを自作サイトにまとめた。それは今このブログでも見ることができるが、あれは俺がウン年考え続けた結果である。そしてその内容は、世界を変えるくらいのインパクトを持っていたようだった。事実なんだから仕方がない。
そういう「結果が得られた」ことが尚一層、俺の諦めの悪さに拍車をかけた。今俺は作家になりたいと思っていて、なろうに自作小説を書いたりしているが、正直内容を見ると稚拙だと思うし、とても今のレベルでは作家になんてなれないと思う。けれど俺のこの諦めの悪さは、なまじっか一度結果を得てしまったために、余計に強固なものになってしまっている。おそらく俺は、この先10年は、作家になるのを諦めないだろう。古代史の分野でず~っと「いつか認められてやる」と思い続け、結果的に10年でそれが叶ったので、作家になりたいという夢も10年は持ち続けるはずである。そして俺は「何でもできるはず」という万能感から脱却できていない。それゆえこんないい歳になっても夢追い人のままである。そして時は過ぎ行く。
・・・まあ、別にいいじゃないか。どうせ始めから普通の人生になるとは思っていなかったのだ。これまでの人生で不思議なことがいろいろあった。ネットゲームをやっていたらポーの詩がメッセージ欄に書き込まれたり、昔のブログに皇居の中からコメントを書きこんだ人がいたり、南米でスパイ合戦に巻き込まれたり。いろいろ不可解なことがあったし、そして俺の人生はこの上なく不可解だ。今更何が起こっても驚く気はしない。何でもドーンと来いや、である。というかむしろまた何か不可解な事件が起こってほしい。

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8月 152018
 

自分で小説を書くようになってみて、やっぱり引き出しは多いほうがいいと思い、去年は頻繁に映画を観ていた。半ば義務感で、一週間に五本とか見てた時期もある。けれど次第にめんどくさくなり、段々見る本数が減っていき、今では月に一本くらいしか観ていない。
何と言うか、集中力が続かないと言うか、めんどくさいと言うか・・・。たかだか二時間程度の集中なのだが、何となくめんどくさい。アニメは30分集中して観れるのに、なぜ映画はめんどくさいのか。よっっぽど観たい映画なら集中力も続くんだけど、そうでもないのは「二時間もあるのか」と思い、及び腰になってしまう。
こんなことではいけないと思うのだ。かつて「漫画家になりたければ、漫画を読むより映画を観ろ」と言われていたらしい。俺だっていつの日か作家になりたいし、面白い話を作るには、アニメばかり観ているのではなくて、映画を観なければダメなのかなあと思う。
いま映画館に行ってまで観たいと思う映画は「銃夢」だ。俺は大学生の時に銃夢の漫画を読んで大好きだったので、これはどうしても観たい。けれど映画館には行かない。なぜかというと、タバコが吸えないからだ。俺は重度のヘビースモーカーなので、最低でも三十分に一本はタバコを吸わないと耐えられないのだ。
だから俺が映画を観る時は、自室でAmazonビデオでである。これはいいぞ~。PCの画面で、無料か、高くても300円くらいで観れる。一昨年からず~っとこれで映画を観ている。引きこもりには強い味方だ。
とりあえず、今観てみようと思っているのは「メメント」と「ファイトクラブ」だ。両方とも名作なので、ぜひ観てみようと思う。他にもまだ観てない名作はいっぱいあるので、「義務感に捕われずに」観ていきたい。

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8月 042018
 

俺はだいぶ前からキリスト教の教会に通っている。通っていると言うか、ちょくちょく礼拝に行っている。と言っても、ここ半年は全く行っていない。なぜなら、行くのがだんだんバカらしくなってきたからだ。
そもそも俺は別にキリスト教を信じてはいない。ではなぜ礼拝に行っていたのかというと、仏教が嫌いだからだ。俺は大学でインド哲学科に所属していて、一応仏教がどんなものか自分なりに学んだ。そうして結局、仏教というのは「自分のことしか考えていない」宗教だとわかった。自力本願と他力本願というのがあるが、仏教は前者で、要するに「いかに自分が神に近づくか」という思想である。悟りを開く、と仏教では言い換えているが、要するに人間がいかに神に近づくかというグノーシス的思想である。誰かを救ってやろうという発想は無い。その証拠に、寺の住職なんて裏で何をやってるのかわからないし、事実大学の研究室にいる寺の関係者どもはクズの集まりだった。
それで俺は仏教が嫌いになり、大学を卒業した次の年からキリスト教会に通うようになった。そして一年後に洗礼も受けた。それは仏教徒であることが嫌だから改宗したに過ぎない。つまりアンベードカルと同じなのである。そしてしばらくは律儀に礼拝にも行っていた。
それから俺は自分でキリスト教についても勉強してきたが、結局キリスト教というのは、「ユダヤ人の都合のいい道具」に過ぎないのではないか、としか思えなくなった。他の国のキリスト教がどうなのかはわからないことも多いが、南米で現地の聖職者と呼ばれる人間と接してみても、結局同じようなものだった。キリスト教の連中は、ユダヤ人の子分みたいなものである。
大体、世界中のほとんどすべての人間は、ユダヤ人がどんなものかもよくわかっていないのだ。通り一遍に「迫害されてきた民族」くらいの認識しか持っていない。だから神への信仰が強いのだ、とか、だから優秀な人間が多いのだ、とか、そういうステロタイプな「ユダヤ人観」は、学校でも教えられるくらいだ。実際には全然そんなことはないのだが。俺のように古代史を勉強し、ユダヤ人の正体をある程度知っている人間なら、とてもユダヤ人に対してそんな印象は持つまい。けれど教会に来ているいわゆる「信徒」たちは、盲目的にそう信じ、牧師の話に耳を傾けている。
宗教というものに関して最も重要なのは「疑いを持つこと」だ。自分の信じる・信じようとするものに対し、懐疑心を持ち、問題点を発見し、もしできるならそれらを改善しようとする。そういう発想なしに、宗教を信じるべきではない。けれどキリスト教の信徒たちは、何も疑わず、問題意識も持たず、ただ盲目的に信じている奴ばかりだ。いくら長く教会に通おうが、それではブタと変わりがない。おそらくユダヤ人たちは、世界中のキリスト教徒たちのことを、ブタだと思いほくそ笑んでいることだろう。何も考えず何も疑わず、聖書の字句を信じていろ、とね。
そしておそらく、キリスト教界の聖職者たちも、同じように思っているだろう。教会に集まってくる信徒に対し、教義や聖書について疑問を抱くな、ただ信じていればいい、とか、そう思ってるんじゃないだろうか。もちろん頭の悪い下っ端の聖職者は何も疑うことなく教義を信じているんだろうが、上位の聖職者であればあるほど、信徒をバカにして見下しているであろうことは容易に想像できる。事実バチカンなんて何をやってるかわからんしな。
キリスト教にもいろんな問題点があるし、中には陰謀だってある。そういうのを自分自身で見つけ出す努力もせずに、ただ盲目的に信じるのは、バカのやることである。そして日本のキリスト教は、自分たちのことを「キリスト者」と呼んだり、パウロのことを「迫害者」と呼んだりするが、これは解放同盟の「差別者」という言葉と同じ響きがするので、俺は大っ嫌いである。そしてもちろん、その両者は無関係ではない。解放同盟のシンボルは「荊冠旗」、つまりイエスの茨の冠だからだ。
俺はこんなことを考えているので、教会の礼拝に行くのがつらい。他の信徒たちを見ると、皆熱心に賛美歌を歌って、牧師の説教に耳を傾けて、けれど実際にはキリスト教のことなんて何もわかってないんだろうな~と思うと、一緒にいるのがつらくなってくる。皆たしかにいい人たちだし、仲良くしたいとは思うんだけども、同時に「バカだな~」と思ってしまうので、つらい。だから段々礼拝に行くのが嫌になってくる。
そんなわけなので、礼拝には行きたくない。けれど神様は信じている。俺ほど神を信じている者はめったにいないだろうと思うくらい、神は信じている。けれど「イエス様を信じています」とは言いたくない。あくまでも俺は「神様を信じている」のだ。それに過ぎない。

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8月 022018
 

もう10年以上前のことになるが、俺はネットラジオをやっていた。2ちゃんねるの独○男性板というところにネトラジスレがあり、そこで放送してた。
きっかけはたまたま俺がそこで他の人の放送を聞いて、面白いと思ったからだ。喋っているのは皆普通の人たちだったが、みんな好き勝手に雑談をして、そういうのは当時他になかったので、聞いてるうちに「自分もやってみたい」と思うようになり、すぐさま電器屋でマイクを買ってきて、自分も始めてみた。
最初のうちはいろいろ好きなことを喋ってて面白かった。俺は洋楽が好きなので、BGMにCDをかけたりしてた。当時はmixiも流行ってたので、それと連動して、他のネトラジDJとの交流なんかもあって楽しかった。
しかし・・・しばらくやってると、キチガイに粘着されるようになった。そもそも2ちゃんねるはキチガイが少なからずいるところだが、ネトラジスレには特に多かったように思う。次第にそういうキチガイが幅を利かせるようになり、スレを使って延々と何百レスもDJ叩きをしたり、悪口を言ったり、そういうのが増えてきた。俺は当時から自分を多分に卑下して自己紹介してたので、余計に叩かれる頻度は高かった。
叩くだけならまあどこでもあるんだろうけど、2ちゃんねるの連中はバカだからねえ。たかがネトラジで声を聞いてるだけなのに、俺のことを何でも知ったかのような気になって好き勝手な批評を繰り広げてて、俺は「ああこいつらは真性のバカなんだな」と思い、それ以来放送はやめた。
当時はmixiが流行ってたけど、俺は自分のリスナーという女とオフ会をしたこともある。そいつは俺のマイミクだったんだけど、メッセを送って、秋葉原で会ってみた。そしたら、これ以下はないな、と思えるほど酷すぎる女が来た。もうほんとに酷いの。チビでデブでブスで服装はダサいし、なんつーか田舎の大根女が服を着てるだけって感じの。おまけに「東南アジアってどこだかわからない」と言うほどの大バカだった。要するに『最底辺』のゴミ女だった。要するに所詮そういうのがリスナーなのである。男のキチガイも同じような最底辺だろう。
そういうのに粘着される日々は、放送をやめて南米に渡ってからもしばらく続いたが、まーキチガイは放置するに限るのでずっと無視してたら、自然といなくなった。
その後流行はネトラジからニコ生に移り、今はふわっちというのが人気のようだが、当時一緒に放送してた奴らはどこに行ったのかね・・・。もうみんないい歳だろうから、結婚してる奴もいるんだろうけど。ふわっちってのはたまに見るけど、マジ廃人みたいな奴ばっかなので、やっぱ顔が見れるってのは大事だと思う。俺が唯一見るのはよっさんの放送だけだけど、彼は配信するだけで年収一千万くらい稼ぐらしい。ネトラジではそういうのは無かったけど、もし俺が10年遅く生まれてたら、ふわっちで配信とかしてたんだろうか。

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