10月 302018
 

最近、なぜか頻繁に「昔ああすればよかった」と考えることがある。
俺はおそらく、発達障害だろう。自分でわかる。昔を振り返ってみると、俺はある部分ではすごく大人びていたが、ある部分では極めて子供だった。俺は中学くらいから「変わり者」と言われることが多かったが、それは、俺が正常な発達段階を経て成長しなかったからだと自分で何となくわかる。
パラグアイにいた時に非日本人からスペイン語を習っていたが、その先生が言うには、「○○さんはとても頭がいいので~」とのことだった。そう、俺は確かに頭がいい。ある分野では天才的な才能を発揮する。けれどある面では、世間知らずで常識知らずでものすごくバカなのだ、俺は。
こういう俺の性格を理解してくれる女はいたにはいたが、その恋が実ることはなかった。今思えば俺に好意を寄せてくれてた女は複数いたと思うが、俺は女を見る目がなかったのだ。その他の大多数の女は、俺の異常な面というか、悪い面ばかり見て拒否してくるので、結果的に今でも童貞である。そう、俺は女を見るという点においても発達障害なのだ。
俺の変わり者という点は、面白がってくれる男もいた。けれど「ムカつく」と感じる男も少なからずいたようだ。その結果、俺は妙に敵を作ってしまう性格である。もちろん俺にだけ責任があるわけではないのだが。俺は要するに、正常に他人とコミュニケーションを図る術を、正常に身につけられなかったのだ。
以上のことを、全部が全部俺自身の責任だというのはやめてほしい。はっきり言って、半分以上いやほとんどは、社会の責任である。この日本という「監視社会」が悪いのだ。他の国に生まれていれば、多分正常に成長していたのかもしれない。
それで最近は、他人との関わりの中で取ってしまった愚かな行動や軽率な行動を、「やっぱりこうしていればよかった」と考えてしまうことが増えている。けれど「時は一直線」であり、時は決して戻らない。時のベクトルは真っ直ぐに未来へ向かって進んでいき、それが変わることはない。だから全ては後の祭りであり、まさに「後悔先に立たず」である。
しかし齢40を過ぎた俺だけど、人は日々成長するものである。俺の人生がどれだけ続くのかわからないが、この時点で過去の誤りに気づいたのだから、今後直せばいいのだ。死ぬまで直らないよりはずっといい。「バカは死んでも治らない」というが、俺は人生の半分くらい(?)の時点で、ようやく気づいた。だからこれから改善すればいいのだ。人間日々是成長である。

10月 162018
 

俺は大学時代に文学部のインド哲学科に所属し、卒業後はキリスト教会に通うようになったが、それらから離れていろいろ考えると、宗教者と呼ばれる人間は全て等しくクズ、である。
俺は大学時代の印哲研究室では不当に仲間外れにされていたが、そこには寺の住職やその息子が何人もいた。奴らは一様に仏教のことを研究しており、研究室には「自由」とか「平等」とか書かれた本が並んでいる。けれど奴らの俺に対する態度はまごうことなき「差別」であり、要するに言ってることとやってることが間逆なのである。大体あそこには浄土真宗本願寺派の連中が多かったが、この宗派は基幹運動という名目で部落解放同盟の提灯担ぎをやっており、こんなクズ同和団体の手先であることから当然、その体質は差別主義そのものである。こいつらは一個人のことを平気で差別するクズの集まりだった。
ここの研究室で思い出すのは、教授だった赤松という男のことだ。こいつは俺が卒論を書く年度に突然異動し、後任の教官も呼ばずに研究室を空白状態にし、俺に卒論指導も受けさせなかった奴だが、こいつは京都の宇治市にある黄檗宗総本山萬福寺という巨大な寺の住職の息子だった。要するに生まれついてのバラモンである。こいつと会話していると、言葉の端々にその差別主義者である本質が伺われる。やれ「シュードラの連中は~」とか「チャンダーラの奴らは~」とか、奴隷カーストやアウトカーストのことを人間だと思っていないのだ。こんな奴が日本のインド哲学界の重鎮である。推して知るべし、である。こいつはその後京都大学の副学長になったそうだが、こんなクズ差別主義者が偉そうな顔をしているから、日本の学問の世界なんてのは選民主義の排他思考なのである。
そしてキリスト教に関して言えば、俺が南米パラグアイに渡った時のことを思い出す。俺はここで日本人会の会長に迂闊なことを言ってしまい、それが理由で職場を追い出される羽目になったが、最初は野○田という現地の日系人の自称宣教師の世話になっていた。こいつは最初、俺にものすごく親切にしてくれたので、本当にいい人だと俺は感服していた。しかし実際には他の日系人と一緒に俺を影で虐めていただけで、親切はただの表の顔だった。こいつは俺に対して最初はいい人の振りをしていたが、次第に侮辱する台詞を吐くようになり、平気で嘘をついたり、つまらない意地悪をするようになっていった。この「嘘」と「意地悪」はパラグアイの文化みたいなもので、パラグアイ人でもしばしばすることだ。しかし本来そういうことから一番離れていなくてはならないはずの宣教師が、率先してそういうことをして、他の連中と一緒に一個人を差別して虐めるというのは、一体どうなんだろうね。
こいつと話していて一番印象に残っているのは、こいつが両手を上げて笑いながら「パラグアイは本っ当にどうしようもない国なんだ!けど仕方ないんだ!みんなそうやって生きているんだ!!」と言い放った時のことである。そしてこいつはいわゆる「気持ち悪い宗教野郎」なので、こうも言った。「イエス様は、もう一度僕たちに会いに来てくれるんですよ!」。神の教えと真反対のことをやってるのに、イエス様も何もないだろう、と俺は思うが。
そしてこの野○田の知人にアメリカ国籍のパラグアイ人牧師がいて、現地の教会組織では最高位の人間だということだったが、こいつも酷い奴だった。名前はクンケルといいドイツ系の移民の子孫だそうだが、あまりに野○田が俺に対して酷い態度をとるので、一度メールで言ってやったことがある。そしたら彼の息子が、俺を自宅に招待してくれたので、のこのこと行ってみた。すると彼は英語で「私は君のことを何も知らない、けれど君も私のことを何も知らない!」と意味深なことを言い、別れ際に「水を飲みたくないか?」と言い、俺に水を手渡した。そしてそれにはなんと、下剤が混ぜられていたのである。こういう国なのだ、パラグアイは。けれど国の問題ではないのだ。仮にも聖職者と言われる人間がこういう言動行動をとることを問題にしているのである。
そしてFacebookでフレンドだった金氣という男は、俺が親戚に当てて書いたメールの文面をなぜか知っていて、それを前提につまらないメールを送ってきた。そういう異常なことをやってるくせに、Facebookを見るといけしゃあしゃあと「神への信仰」とか「祈りがどうこう」とか書いている。要するにこいつも、言ってることとやってることが真逆の、バカを通り越して真正のキチガイなのである。つまり「気持ち悪い宗教野郎」だ。俺はこいつとは関わり合いになりたくないので、フレンドを切ってブロックした。

・・・と、俺の恨みつらみをグダグダ並べたような文章になってしまったが、俺が言いたいのは、上述のような「宗教を指導する立場」の人間が、率先して差別主義者であるという事実が問題だと言っているのだ。要するにこいつらにとっては、宗教というものは、ただの自己満足の存在に過ぎないのである。それを実践して自分が自由と平等を体現しようという発想は、彼らには、無い。だから俺は、特定の宗教は信じないし、何かを信じているという奴も信じない。俺は「神を信じている」だけで、イエスもブッダも信じていない。おそらくイエスもブッダも、現在の「気持ち悪い宗教野郎」共を見たら、嘆き悲しむだろうね。自分の言ってることを全く理解してないじゃないか、と。そして一番可哀想なのは信徒である。いわゆる聖職者がクズなのに、聖職者の言うままに祈りを捧げて念仏を唱え、その宗教のことを何も学ばないで、ただの宗教の言いなりである。
一つ書いておくと、俺は死んだら土葬にしてほしい。正確に言うなら、穴を掘ってその中にそのまま遺体を埋めてほしい。火葬は嫌だ。文字通り「土に還り」たい。何故なら、アダムは「土」という意味だからだ。

10月 152018
 

数ヶ月前「絶対に完結させてみせる」と意気込んでいた、なろうの自作小説だが、なんとまたまたエタってしまった。

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う~ん、途中までは頑張って書いていたのだ。けど結局、ネタ切れというかやる気切れというかで、筆を折ってしまった。
やっぱ俺って才能ないのかなあ・・・うーん。なんちゅーか、書く前の練り込みというか、構想段階からもうダメなのだ。自分で自覚できるけど、俺にはストーリーテラーとしての才能が、ない。それはなぜなのか。単につまらない人間だから複雑な話を考える能力に欠けているのか。それとも(人一倍苦労はしてきたけど)社会経験や人間関係における経験が少ないから、リアリティのあるストーリーを書く才能に欠けているのか。それともその両方なのか。
うむむ・・・、「この最底辺の現状から抜け出すには作家になるしかない!」と思い立って約二年、勉強のためと思っていろんな本を読んできて、今でもそれは続いていて、いつの間にか読書が最大の趣味となっている俺だが、いくら他人の書いたものを読んでも自分で書くことが出来るようにはならないのだろうか?確かに本を全く読まない奴でも面白い文章を書いてるケースはあるし、俺は典型的な「物書きには向いていない」人間なのだろうか・・・。小学校の時に作文と読書感想文で四回自治体の文集に載ったことのある俺だが、作家になるには才能が欠けているのかな。
・・・しかし諦めたくはない。俺だって生きた証を残したいと少しくらいは思う。去年今年となろうでエタってしまったが、また気持ちを入れ替えていつか書いてみせる・・・ぞ。

10月 112018
 

俺は中学生までは普通に人の話を聞いて理解できた。学校でも塾でも、先生の話を聞いてちゃんと頭に入ってきた。しかし高校に入ってからは、人に教えてもらうということが全くダメになってしまった。
なぜなのかはわからないが、とにかく他人の話が全く頭に入ってこないのだ。これは高校を出て予備校に行っても大学に行っても同じだった。とにかく誰かに教えてもらうということが、全くダメなのである。これは何かの病気なのだろうか。多分「なんとか症候群」とか名前をつけられてしまうと思う。
だから受験や大学時代は大変だった。他人に教えてもらうことが出来ないため、高校時代の成績はずーーっとビリ、受験時になって一から教科書や参考書を読んで、自分で自学した。けど当時の俺はゲーセンのことばかり考えていたし、いろいろと集中出来る環境になかったため、正直受験勉強は壊滅的に手がつかなかった。それでも地頭が良いので何とか旧帝大に受かったが、普通の人なら大学に入るのを諦め高卒プーになっていたことだろう。今考えても、よくマトモな大学に入れたと自分を褒めてやりたい。
そして大学に入ってからもこの傾向は続き、とにかく授業が頭に入ってこない。いくら「真面目に授業を受けよう」と思っても、ダメなものはダメなのだ。それで俺は、ペーパーテストのある授業はほとんど単位を取れなかった。それでレポート提出の授業を出来るだけ選んで、多留年はしたものの、何とかギリギリで卒業した。
自分でもこれがなぜなのかは未だにわからない。間違いなく「なんとか症候群」の一種だと思うのだが、今更わかったところでどうなるわけでもない。多分俺は天才の一種で、その反動で他人の話が頭に入ってこないんだろうと思うのだが、これはある職場で、こう言われたことに端的に現れていると思う。それは「○○さんって、まず自分ありきでしょう」だ。たしかにその通り、俺は自分が一番大事だ。だからどこの職場に行っても長続きしない。高校でも予備校でも大学でも、授業中であっても「まず自分ありき」だ。他人にかかずらわっている暇はないと思っていた。それが他人の話を聞こうとしない習慣に現れているのだろうか。「なんとか症候群」・・・う~ん、アスペなのかなあ。

10月 042018
 

以前「ユダヤ人は何でも自分たちの都合のいいように考えている」と書いたが、俺は教会に通うようになってそう思うようになった。
例えば、有名な「悔い改めよ」というイエスの台詞も、英語の辞書には「repent」と書いてあるが、これは「悔いる」「後悔する」という意味である。そう、ただ単に「悔いよ」という意味なのである。それを日本のバカな神学者が「改める」という言葉をくっつけて「悔い改めよ」と翻訳して、それが一般に普及してしまっている。要するにイエスは、2000年前に現れた時に、ユダヤ民衆に「悔いよ」「後悔せよ」と言っていたのである。改めるチャンスなど与えていなかったのだ。
だからイエスが処刑された(死ななかったが)のも、自分たちの罪を身代わりに引き受けて下さったのだ、とか、自分たちの都合のいいように解釈している。俺が昔見た「ベン・ハー」という映画も、そんな感じだった。なんでユダヤ人はああも自己中心的に考えるかな。
実際には悪魔というのはユダヤ人のことであって、サタンというのもユダヤ人の(特にダン族の)ことである。ユダヤ人は神の敵なのである。それなのに自分たちは神の選民だとか、苦難に耐えてきたとか、嘘八百を垂れ流して世の中を牛耳っている。
こういうことを考えると俺はますます教会に行きたくなくなる。一度だけ教会の牧師に、礼拝式文のおかしなところを指摘してやったことがあるが、無視された。まあ神学校なんて何を教えてるのか知らないが、どうせユダヤ人に都合のいいことをタラタラ教え込んでるんだろうし、牧師や神父なんてユダヤ人の手先のようなもんだろうから、言っても無駄だろうが。そして信徒の連中は、何も疑問を抱くことなく礼拝に出て、式文を詠んで、ユダヤ人を礼賛している。全くバカバカしい。
666にしても、アバドンにしても、アポリオンにしても、冷静に考えればユダヤ人が我々人類の敵だとわかりそうなもんだが、ユダヤ人の末裔たる日本人には理解もできまい。なぜ原爆を落とされたのか、その本当の理由もわかるまい。何時になったら人類がイエスの本当の気持ちをわかる日が来るのかねぇ~。