8月 042018
 

俺はだいぶ前からキリスト教の教会に通っている。通っていると言うか、ちょくちょく礼拝に行っている。と言っても、ここ半年は全く行っていない。なぜなら、行くのがだんだんバカらしくなってきたからだ。
そもそも俺は別にキリスト教を信じてはいない。ではなぜ礼拝に行っていたのかというと、仏教が嫌いだからだ。俺は大学でインド哲学科に所属していて、一応仏教がどんなものか自分なりに学んだ。そうして結局、仏教というのは「自分のことしか考えていない」宗教だとわかった。自力本願と他力本願というのがあるが、仏教は前者で、要するに「いかに自分が神に近づくか」という思想である。悟りを開く、と仏教では言い換えているが、要するに人間がいかに神に近づくかというグノーシス的思想である。誰かを救ってやろうという発想は無い。その証拠に、寺の住職なんて裏で何をやってるのかわからないし、事実大学の研究室にいる寺の関係者どもはクズの集まりだった。
それで俺は仏教が嫌いになり、大学を卒業した次の年からキリスト教会に通うようになった。そして一年後に洗礼も受けた。それは仏教徒であることが嫌だから改宗したに過ぎない。つまりアンベードカルと同じなのである。そしてしばらくは律儀に礼拝にも行っていた。
それから俺は自分でキリスト教についても勉強してきたが、結局キリスト教というのは、「ユダヤ人の都合のいい道具」に過ぎないのではないか、としか思えなくなった。他の国のキリスト教がどうなのかはわからないことも多いが、南米で現地の聖職者と呼ばれる人間と接してみても、結局同じようなものだった。キリスト教の連中は、ユダヤ人の子分みたいなものである。
大体、世界中のほとんどすべての人間は、ユダヤ人がどんなものかもよくわかっていないのだ。通り一遍に「迫害されてきた民族」くらいの認識しか持っていない。だから神への信仰が強いのだ、とか、だから優秀な人間が多いのだ、とか、そういうステロタイプな「ユダヤ人観」は、学校でも教えられるくらいだ。実際には全然そんなことはないのだが。俺のように古代史を勉強し、ユダヤ人の正体をある程度知っている人間なら、とてもユダヤ人に対してそんな印象は持つまい。けれど教会に来ているいわゆる「信徒」たちは、盲目的にそう信じ、牧師の話に耳を傾けている。
宗教というものに関して最も重要なのは「疑いを持つこと」だ。自分の信じる・信じようとするものに対し、懐疑心を持ち、問題点を発見し、もしできるならそれらを改善しようとする。そういう発想なしに、宗教を信じるべきではない。けれどキリスト教の信徒たちは、何も疑わず、問題意識も持たず、ただ盲目的に信じている奴ばかりだ。いくら長く教会に通おうが、それではブタと変わりがない。おそらくユダヤ人たちは、世界中のキリスト教徒たちのことを、ブタだと思いほくそ笑んでいることだろう。何も考えず何も疑わず、聖書の字句を信じていろ、とね。
そしておそらく、キリスト教界の聖職者たちも、同じように思っているだろう。教会に集まってくる信徒に対し、教義や聖書について疑問を抱くな、ただ信じていればいい、とか、そう思ってるんじゃないだろうか。もちろん頭の悪い下っ端の聖職者は何も疑うことなく教義を信じているんだろうが、上位の聖職者であればあるほど、信徒をバカにして見下しているであろうことは容易に想像できる。事実バチカンなんて何をやってるかわからんしな。
キリスト教にもいろんな問題点があるし、中には陰謀だってある。そういうのを自分自身で見つけ出す努力もせずに、ただ盲目的に信じるのは、バカのやることである。そして日本のキリスト教は、自分たちのことを「キリスト者」と呼んだり、パウロのことを「迫害者」と呼んだりするが、これは解放同盟の「差別者」という言葉と同じ響きがするので、俺は大っ嫌いである。そしてもちろん、その両者は無関係ではない。解放同盟のシンボルは「荊冠旗」、つまりイエスの茨の冠だからだ。
俺はこんなことを考えているので、教会の礼拝に行くのがつらい。他の信徒たちを見ると、皆熱心に賛美歌を歌って、牧師の説教に耳を傾けて、けれど実際にはキリスト教のことなんて何もわかってないんだろうな~と思うと、一緒にいるのがつらくなってくる。皆たしかにいい人たちだし、仲良くしたいとは思うんだけども、同時に「バカだな~」と思ってしまうので、つらい。だから段々礼拝に行くのが嫌になってくる。
そんなわけなので、礼拝には行きたくない。けれど神様は信じている。俺ほど神を信じている者はめったにいないだろうと思うくらい、神は信じている。けれど「イエス様を信じています」とは言いたくない。あくまでも俺は「神様を信じている」のだ。それに過ぎない。

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