10月 162018
 

俺は大学時代に文学部のインド哲学科に所属し、卒業後はキリスト教会に通うようになったが、それらから離れていろいろ考えると、宗教者と呼ばれる人間は全て等しくクズ、である。
俺は大学時代の印哲研究室では不当に仲間外れにされていたが、そこには寺の住職やその息子が何人もいた。奴らは一様に仏教のことを研究しており、研究室には「自由」とか「平等」とか書かれた本が並んでいる。けれど奴らの俺に対する態度はまごうことなき「差別」であり、要するに言ってることとやってることが間逆なのである。大体あそこには浄土真宗本願寺派の連中が多かったが、この宗派は基幹運動という名目で部落解放同盟の提灯担ぎをやっており、こんなクズ同和団体の手先であることから当然、その体質は差別主義そのものである。こいつらは一個人のことを平気で差別するクズの集まりだった。
ここの研究室で思い出すのは、教授だった赤松という男のことだ。こいつは俺が卒論を書く年度に突然異動し、後任の教官も呼ばずに研究室を空白状態にし、俺に卒論指導も受けさせなかった奴だが、こいつは京都の宇治市にある黄檗宗総本山萬福寺という巨大な寺の住職の息子だった。要するに生まれついてのバラモンである。こいつと会話していると、言葉の端々にその差別主義者である本質が伺われる。やれ「シュードラの連中は~」とか「チャンダーラの奴らは~」とか、奴隷カーストやアウトカーストのことを人間だと思っていないのだ。こんな奴が日本のインド哲学界の重鎮である。推して知るべし、である。こいつはその後京都大学の副学長になったそうだが、こんなクズ差別主義者が偉そうな顔をしているから、日本の学問の世界なんてのは選民主義の排他思考なのである。
そしてキリスト教に関して言えば、俺が南米パラグアイに渡った時のことを思い出す。俺はここで日本人会の会長に迂闊なことを言ってしまい、それが理由で職場を追い出される羽目になったが、最初は野○田という現地の日系人の自称宣教師の世話になっていた。こいつは最初、俺にものすごく親切にしてくれたので、本当にいい人だと俺は感服していた。しかし実際には他の日系人と一緒に俺を影で虐めていただけで、親切はただの表の顔だった。こいつは俺に対して最初はいい人の振りをしていたが、次第に侮辱する台詞を吐くようになり、平気で嘘をついたり、つまらない意地悪をするようになっていった。この「嘘」と「意地悪」はパラグアイの文化みたいなもので、パラグアイ人でもしばしばすることだ。しかし本来そういうことから一番離れていなくてはならないはずの宣教師が、率先してそういうことをして、他の連中と一緒に一個人を差別して虐めるというのは、一体どうなんだろうね。
こいつと話していて一番印象に残っているのは、こいつが両手を上げて笑いながら「パラグアイは本っ当にどうしようもない国なんだ!けど仕方ないんだ!みんなそうやって生きているんだ!!」と言い放った時のことである。そしてこいつはいわゆる「気持ち悪い宗教野郎」なので、こうも言った。「イエス様は、もう一度僕たちに会いに来てくれるんですよ!」。神の教えと真反対のことをやってるのに、イエス様も何もないだろう、と俺は思うが。
そしてこの野○田の知人にアメリカ国籍のパラグアイ人牧師がいて、現地の教会組織では最高位の人間だということだったが、こいつも酷い奴だった。名前はクンケルといいドイツ系の移民の子孫だそうだが、あまりに野○田が俺に対して酷い態度をとるので、一度メールで言ってやったことがある。そしたら彼の息子が、俺を自宅に招待してくれたので、のこのこと行ってみた。すると彼は英語で「私は君のことを何も知らない、けれど君も私のことを何も知らない!」と意味深なことを言い、別れ際に「水を飲みたくないか?」と言い、俺に水を手渡した。そしてそれにはなんと、下剤が混ぜられていたのである。こういう国なのだ、パラグアイは。けれど国の問題ではないのだ。仮にも聖職者と言われる人間がこういう言動行動をとることを問題にしているのである。
そしてFacebookでフレンドだった金氣という男は、俺が親戚に当てて書いたメールの文面をなぜか知っていて、それを前提につまらないメールを送ってきた。そういう異常なことをやってるくせに、Facebookを見るといけしゃあしゃあと「神への信仰」とか「祈りがどうこう」とか書いている。要するにこいつも、言ってることとやってることが真逆の、バカを通り越して真正のキチガイなのである。つまり「気持ち悪い宗教野郎」だ。俺はこいつとは関わり合いになりたくないので、フレンドを切ってブロックした。

・・・と、俺の恨みつらみをグダグダ並べたような文章になってしまったが、俺が言いたいのは、上述のような「宗教を指導する立場」の人間が、率先して差別主義者であるという事実が問題だと言っているのだ。要するにこいつらにとっては、宗教というものは、ただの自己満足の存在に過ぎないのである。それを実践して自分が自由と平等を体現しようという発想は、彼らには、無い。だから俺は、特定の宗教は信じないし、何かを信じているという奴も信じない。俺は「神を信じている」だけで、イエスもブッダも信じていない。おそらくイエスもブッダも、現在の「気持ち悪い宗教野郎」共を見たら、嘆き悲しむだろうね。自分の言ってることを全く理解してないじゃないか、と。そして一番可哀想なのは信徒である。いわゆる聖職者がクズなのに、聖職者の言うままに祈りを捧げて念仏を唱え、その宗教のことを何も学ばないで、ただの宗教の言いなりである。
一つ書いておくと、俺は死んだら土葬にしてほしい。正確に言うなら、穴を掘ってその中にそのまま遺体を埋めてほしい。火葬は嫌だ。文字通り「土に還り」たい。何故なら、アダムは「土」という意味だからだ。

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