5月 072020
 

「どのように死ぬか」。・・・これは俺にとって、今でもふと考えるテーマである。
齢40代も後半に差し掛かり、もしかしたら突然ポックリ逝く可能性が無きにしもあらずという年令になった俺だが、どのようにして死ぬかというのは、いつでも頭の片隅に置いてある、「考えたくないが考えざるを得ない」事柄である。
俺が初めて自分の死に方について考えたのは、大学時代だったか、テレビで海外ドラマを見ていた時である。そのドラマは、アラブのハイジャック犯が飛行機を乗っ取って、乗客を次々に射殺するという内容だった。その中で、ある老婆がハイジャック犯に射殺されるのだが、ピストルを頭に押し当てられて頭を撃ち抜かれて射殺されていた。
その際に、その老婆が「こんな死に方嫌ぁー!!」と叫んで撃ち殺されていたのだが、それを見て俺は、「死に方」について考えるようになった。
生まれてきて子供の頃は両親と幸せな生活を送り、青春時代に男性と知り合って結婚し、子供を産み彼らが成長して、やがて孫に恵まれ、幸せな人生を送っていたのではないだろうか、あの老婆は。そんな普通の幸せな人生を送っていたのに、死ぬ時は飛行機でハイジャック犯に頭を撃ち抜かれて死ぬ・・・。確かに「こんな死に方嫌」だと叫びたくなるだろう。
同じく死に方についてテーマにした作品として、筒井康隆の「死にかた」という短編がある。これはある時突然職場に鬼が現れて、鉄の棍棒で社員を次々に撲殺し、全員殺された後主人公が殺される場面になり、必死に命乞いをする。すると鬼が笑い出し、「ハハハ、当たり前の命乞いをしたのはおまえが初めてだ」と言うので、主人公が「じゃあ殺さないでくれるのですか」と訊くと、鬼は「いや、やっぱり殺すのだ」と棍棒を振るい、主人公を撲殺する、という内容である。これは筒井康隆らしくシュールなブラック短編で、後に相原コージが漫画化していた。
死に方というのを考えると、俺は今までいろいろあっても一応普通の人生を送ってきて、最後にどうなるか、ということである。交通事故で突然死ぬか、病気で苦痛にのたうち回って死ぬか、急病でポックリ死ぬか、コロナや大地震でいきなり死ぬか、エトセトラetc。人がどうやって死ぬかは誰にもわからない。だから精一杯生きねばならない、という論に繋がる。
人は必ず死ぬ運命だが、死ぬために生まれてくるのではない。生きるために生まれてくる。だからその生では、生きることだけ考えていればいい。
俺は小学校の頃、核戦争の恐怖に怯えていたことがあり、いつ核戦争が起こって死ぬか、ということばかり考えていたことがある。ある日親父にその事を話したら、親父は「そんなことばっか考えてても仕方ないんだよ。それよりも・・・」と言い、その先は聞き取れなかった。果たして親父は何と言おうとしていたのか、今ならわかる気がするが、ここには書かない。
「銃夢」というマンガの中に、メリーゴーランドの上で走る生きた馬が、そこから逃れ、そのまま数歩だけ歩いて死ぬ、という場面があった。そこでメリーゴーランドを作ったノヴァ博士が「バカな馬です。メリーゴーランドの上を走っていれば死なずに済んだものを」と言うと、息子のケイオスが「僕はそうは思わない。あの馬は最後の数歩を好きなように歩いて死んだのだ」と言う。ここに「自由」という概念の如何を見ることができると考えるのは、俺が籠に囚われた鳥のような思いを抱いているからだろうか。
どのように死ぬか、というのは重要だ。もし死ぬ時に、満足して死ぬことができたなら、その人生は良い人生だったと言えるだろう。どんな苦難の人生であっても、たとえ長い間牢に閉じ込められていた人生であっても、死ぬ時に足の鎖が外されて愛する人に囲まれて死ねたなら、その人生は勝利だったと言えるだろう。ネルソン・マンデラは人生に勝ったし、ジャン・バルジャンは人生の勝者だ。
教会の友人が言っていたことだが、「あなたが生まれてきた時、あなたは泣いていたけど周りの皆は笑っていたでしょう。だから死ぬ時は、みんなが泣いていてもあなたは笑っていられるような、そんな人生を送りなさい」。果たして俺はそんな人生を送っているだろうか。
人は生きるために生まれてくる。だから生きることだけ考えていればいい。どんな死に方をするか、それは誰にもわからないし、神にもわからない。人生がどうなるかなんて誰にもわからない。最後の数歩を自由に歩く馬になるか、鎖を引きずったまま繋がれた囚人として終わるか、それは自分次第だろう。
籠に囚われた鳥は、いつか羽ばたく。

 Leave a Reply

(必須)

(必須)