2月 092022
 

「新世紀エヴァンゲリオン」が何のために作られたかはいまだ謎で、90年代の映画公開時にローマ教皇庁が「あの内容は正しい」というメッセージを出したことを考えても、バチカンの意向で作られたんじゃないかなと思うのだが、じゃあ何が目的だったかというと俺にはわからない。
あの作品は当時はいろいろ考察とかあったけど、要するに「皆の興味を引く単語を散りばめて」「それっぽいメタファーをたくさん織り込んで」「さも隠されたメッセージがあるかのように」作られただけの作品であって、実際には整合性も辻褄も考慮されていないしょうもない作品だ。俺はそれに気づいてから興味がなくなったが、一応新劇場版も全部見た。
問題なのは、90年代の映画版のラストシーンの「気持ち悪い」というセリフ。あれは「気持ち悪い」というセリフを言われていた何某かに対するサインのようなものだったと思えてならないが、じゃあ何を示唆していたのかというとよくわからない。バチカンは「あの内容は正しい」と言ったのだから、じゃあ「何の内容か」というのが問題だ。
結局あの作品は90年代で全て終わった作品であって、仮に何か伝えんとしていたならば、それは90年代の作品の中に全て込められているはずである。碇シンジというのがキリスト的な何かであったことは俺でもわかるけど、じゃあそれが「気持ち悪い」というのはどういうことか。
ここで一つ思い出すべきは、ユダヤ人がイエスをどう捉えているか、ということ。イエスは堕落したユダヤ人を諭すために現れ、彼らを説得してやったにもかかわらず、彼らの手によって磔刑に処されてしまった。それなのにユダヤ人は、「イエスは自分たちを救いに来てくれたのだ」と自分たちに都合のいいように解釈し、いつの間にか自分たちの救い主に祭り上げている。
俺はこれまでキリスト教と仏教の、所謂「聖職者」と呼ばれる人間と何人も接してきたが、彼らに「神の教え」「仏の教え」に従って生きている者はほとんどいない。皆真逆の生き方をしている。これは何故か考えると、結局「悪人正機説」みたいなもの、つまり「悪しき生き方をしていても救ってもらえる」みたいな考え方があるから、全員開き直ってしょうもない生き方をしているのかな、と思う。
もしくは「また誰かが自分たちの罪を償ってくれる」と考えているとか・・・。俺はこの可能性は極めて高いと思う。誰かを磔刑に処すことはないにせよ、「常に不幸な状態」にしておくことにより、自分たちが救われた状態になるのだ、とか思っているのではないか。エヴァンゲリオンの90年代の映画のTVCMで、「これが貴方の望んだ世界そのものよ」というセリフがあったが、それは「気持ち悪い」と言われていた者のことであって、彼がスケープゴートにされていることにより、現在の世界(この国?)は救われた状態にあるのでは・・・と思えてならない。

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