4月 112022
 

「絶対的幸福」を追求すべきという俺の考え方だが、残念ながら世の中の大半のクズは「相対的幸福」を求めるものらしい。
よって、じゃあ俺も相対的幸福を求めようという気になり、とりあえず他人に不幸になってもらおうと思うようになった。他人が不幸になれば、その分相対的に俺の幸福度は上がるからだ。
一昨年からコロナ禍になり、今年からはウクライナ危機になり、日本は直接の戦争被害はなくても経済的にダメージを受けたりして、みんな徐々に不幸になっている。
一方の俺は、一昨年からダイエットに成功したり、去年は禁煙したり自作PCを作ったり腰痛解消したり、今年は脱◯貞したり、微妙~に良いことが続いている。そう、皆の不幸のエネルギーを吸い取って俺の幸福に替えているかのような感がある。
このまま他の連中、いや他の日本人には、「真綿で首を絞めるように」徐々に不幸になってもらい、その分相対的に俺を幸福にしてもらおうと思う。今までは皆の幸せを願ってきたが、俺の気も知らないで人をコケにするような真似ばかりするから愛想が尽きた。俺さえ良ければいい。他の連中の運気を吸い取って、俺だけが幸せになろう。他の日本人は「真綿で首を絞めるように」どんどん不幸になれ。

おまえらの不幸が、俺の幸せなのだから(笑)。
So it goes. そういうものだ。

4月 032022
 

今日は俺の誕生日。
去年に比べてどうだろう?この1年でやったことは?禁煙、部屋のリフォーム、自作PC作成、(軽い)筋トレによる腰痛解消、そして脱◯貞。

・・・ん?結構いろいろ達成できてね?

近所のアライアンス教会、あそこに通うようになってから運気が上向いてるな、なんとなくそう思う。
よし、この調子で、今年は「10kg痩せる」のと「内職を見つける」ことを目標にしよう!

今日の一枚。

3月 182022
 

昔から言われている「たとえ話」には、いろいろ示唆的なものが多い。
例えば「蛇のように執念深い」「蛇を殺すと親が来る」とか。これは俺が嫌というほど経験している、事実でもある。「蛇」という言葉で表現されている何某というのは、それをシンボルにするダン族だが、本当にこのたとえ話通りの生き物である。
だが、こういう話もある。実際に日本であった話だが、「マムシ酒」というのがあって、焼酎にマムシを生きたまま漬けておく珍酒だが、何十年間もマムシを漬けておいたマムシ酒の瓶の蓋を開けたら、中からマムシが飛び出してきて、料理人の腕を噛み、その料理人はマムシの毒で死んでしまった、という。

そういうことだよ。

かのネルソン・マンデラも、何十年間も監獄に閉じ込められていたが、最終的には南アフリカの大統領になった。第二次大戦が終わった後、イスラエルはナチスの残党狩りを止めることなく続けている。

そういうことだよ。

3月 102022
 

今回のウクライナ危機。
ヴィシュヌと協力して世界を維持してきたクリシュナだが、もはや愛想が尽きた。
クリシュナは破壊神シヴァと手を組んだ。
世界を灰燼に帰せよ!

 

12月 282021
 

俺の最も好きな作家の一人である筒井康隆が、歳をとった感想を聞かれて、「老人になるのは初めてなので、何もかも新鮮」と答えたらしい。さすがは筒井老、普通の人とは考え方が違う。
確かに、子供の頃にしか経験できないこともあるし、大人にならないと経験できないこともあるし、老人にならないとわからないこともある。そういう意味では、「死こそ最大の楽しみ」である。一体死とはどういうものなのか。死ぬとは、どのような体験であるのか。実を言うと、俺は死ぬのが(ある意味)楽しみである。もちろんそれに至る苦痛は経験したくないが、死ぬというのはどういうものなのか経験してみたいと思っている。そういう意味では、俺は死を全く怖れていない。

「人間」と「死」をテーマにした作品といえば、手塚治虫の「火の鳥」がある。俺はこの作品をしばしば読み直すが、医師でもあった手塚治虫の死生観を反映しているというか、つまるところ「永遠の命なんてものは無い」というのが結論である。「永遠の命を求めることは虚しい」というのも結論である。
大体神であるはずの火の鳥自身でさえ不死身ではなく、「黎明編」であっさり人間に殺されてしまう。そして火の鳥の血を舐めて不老不死になる人間は確かに出てくるけど、皆不幸である。不老不死になりその結果幸せになる人間というのは、作品中一度も出てこないはずだ。
俺が「火の鳥」を読んで印象に残っているのは、終章の「太陽編」である。これは狼の仮面を被った男の物語だが、狼というのはイスラエル十二支族のベニヤミン族のことであって、太陽編というのはつまり太陽信仰のことである。作品を通じて永遠に輪廻転生を繰り返すサルタヒコがいて、彼は結局最後まで輪廻の輪から抜けられない。けれど狼の仮面を被った男は「もうこんな連中に付き合うのはやめよう」と輪廻の輪から抜け、愛する女性とともに別の世界へ旅立ってゆく。
手塚治虫は古代史にも造詣の深い人物だったろうから、太陽信仰が持つ意味と、サルタヒコが象徴する存在が何であるか、よく判っていたはずだ。そう、日本の「何某」かを象徴するサルタヒコは、輪廻の輪から抜けられない。だから狼は彼らに愛想を尽かし、「太陽」に向かって飛んで行く。それが不老不死と永遠の命をテーマにした作品の結末である。

「明日死ぬかのように生き、永遠に生きるかのように学べ」と言ったのはガンジーだったかと思うが、要するに「精一杯生きろ」ということだ。俺は?生きてるよ精一杯。ザ・フーのキース・ムーンが死んだ時、「生き急いでいるようだった」と言われたそうだが、俺も昔は生き急いでた。だから急ぐのはやめた。けど精一杯生きている。

12月 162021
 

ここ最近ずっとやってたボーダーランズ2を、DLCも含めてクリアした。いやー面白かった。サイドクエストは半分もやってないけど、それでも60時間以上楽しめた。文句なしに今年やったゲームで一番の面白さだった。明日からやるゲームはすでに買ってあるXCOM2で、これで年越しをしようと思う。

昨日から考えてたけど、なんちゅーか「他人の足を引っ張る」のが好きな奴っておるやん?自分のことはそっちのけで、他人の邪魔ばかりしてる奴。俺はこういう奴に迷惑させられることが多いんだけど、こういう奴らの「存在意義」について、あれこれ考えていた。
で気づいたのは、結局世の中には二種類の人間がいるということ。それは「世の中を進歩させようとする者」と「世の中の進歩を阻害する者」だ。このうち後者は、「=他人の足を引っ張る奴」と同義だと思う。
世の中を進歩させようとする者とは、要するに革命家であったり、新しいテクノロジーを生み出す者だったり、新しい理論を考える者だったりする。俺はもちろんこちら側に属し、自分で学生時代からずっと勉強していた理由は、世の中を変えたいという願望があったからである。
けれどそういう変革を望まない人間が少なからずいて、それが進歩を阻害する者である。そういう奴らは既得権益だったり、要するにエスタブや王侯貴族みたいな連中がそうである。そしてそれ(=体制)を守るための手先として、警察や官憲があるわけだ。もちろん宗教権威も同じである。こういう奴らは、他人特に変革者の足を引っ張って、世の中を変革させまいとする。これが「足を引っ張る」ことの原義である。
だから要するに、警察とか精神科医とか聖職者とか他にもマスコミなんてのは、ゴリゴリの既得権益でありエスタブなので、他人の足を引っ張るのは当然なのだ。なぜならそれが彼らの仕事であり存在意義だからである。彼らは他人の足を引っ張ることで飯を食い、世の中を変革させまいと、変革を望む者を陥れて縄にかける。彼らは権力や体制の手先なので、世の中が変革してしまっては困るから、ひたすら他人の足を引っ張り、他人の邪魔をする。
日本が「他人の足を引っ張る」文化だというのは古くから言われることだが、これは結局、日本が天皇制だからだろう。この何の根拠もないのに偉い立場に座っている連中を崇める体制を変えさせないために、他人の足を引っ張る=世の中を変革させまいとする文化が闊歩している。

俺のように変革を望む者は阻害されて落とされる。So it goes. そういうものだ。けれど肝心の「彼ら」は、果たしてその立場を望んでいるのかな?籠の中の鳥は、外を自由に飛び回りたいと思っているのではないかな?

10月 192021
 

俺は「心理学をやっている」という人間を信用していない。こういう人間は大抵「自分は人間の心理を熟知している」と思い上がり、他人をコントロールしようとしたり、対話のテクニックを使って会話しようとしたりするので、逆に信用できない。
そもそも日本の精神科医なんてのは、バカスカ薬を出して薬漬けにして延々意味もなく通院させたり、特に理由もなく入院させたりして、医師としての能力が極めて低い者が多い。「患者を治療する」という発想のない日本の精神医学、あんなものは医療ではない。
そして日本の精神医学の基礎になっているのが、ユング心理学である。あくまでも俺は門外漢として外部からの印象を語ることしかできないが、ユングというのは海外ではオカルト扱いされて、日本のように「精神医学の基礎」とはみなされていないという。
元々精神医学を開拓したフロイトが、後にユングと出会い、しばらくウィーンで共同で研究をして、その後戦争が起こり二人は別れたと言われている。しかしユングはその後ナチスの幹部になり、どこかの省庁の副局長になったはずである。俺の想像では、フロイトの研究成果をドイツに持ち帰り、それをナチスに提供して、宣伝相や心理戦に応用させたのではないかと思う。そうでもなければナチスがあれだけ心理をコントロールする戦術を多用できたはずはない。
俺がいつも思うのは、ユングの言う根本原理である「共時性」であるが、なぜ日本人はこれを真に受けるのか不思議でならない。共時性というのは要するに「どこにでも似たようなものは現れる、それらは共通の無意識がもたらすものであり、みな偶然である」ということだ。そしてそれを、神話モチーフが各地で共通性を持つこと等に求める。だが、そもそも彼らゲルマン民族というかアーリア民族は、元が印欧祖語を話す同じ民族である。だから神話モチーフが共通しているのも当然である。印欧比較神話学がとっくの昔に確立していたヨーロッパで、ユングの主張を真に受ける者など皆無であった。こういうことなどから、ユングの学説は欧米ではオカルト扱いされているという。
そしてその逆に、フロイトの学説の基本は「何にでもルーツ・起源がある」と考え、その根本原因を探ることであった。ここにフロイトとユングの決定的な違いがある。フロイトは「似たような物事があったら起源を探る」という発想であり、ユングは「似たような物事があっても偶然である」という発想だ。
これは日本の同和問題を考える上で、「人種起源説」を採るか「政治起源説」を採るか、という問題とシンクロしている。もしフロイト的に考えるなら、日本の同和問題と外国の差別問題を比較して共通の起源はないか探ろう、ということになり、そこには共通の人種が介在しているのでは、と考えることである。しかしユング的に考えるなら、日本の同和問題と外国の差別問題は似ているがただの偶然であり、日本でも外国でもそれは体制が作った制度であって、似た制度がともに存在するのは偶然である、という考えになる。
だから俺は、日本で妙にユング心理学を拝聴する傾向が強いのは、部落解放同盟の影響があるからではと考えている。言うまでもなく、部落解放同盟は政治起源説だからだ。
心理学者や精神科医と話すと、二言目には「ああそれは偶然だよ」「似たようなことはどこでも現れる」と言う。俺はこういうのは、ただのバカの妄言だと思う。要するに、物事のルーツを探ろうとせずに、何でも偶然偶然と片付けるのは、知の探求を放棄したバカの考え方だ。そして日本の精神医学界は、こういう連中で占められている。
日本はガラパゴス島国の国ゆえ、「日本でしか通用しないこと」がたくさんある。ユング心理学もその一つだと思うが、これを意図的に広めようとしているマスコミや作家などは、何を意図しているのかね?「日本の宣伝相」などはナチスの宣伝相の理論を参考にしているらしいので、大いにユングや河合隼雄には負うところがあるのだろうが。