10月 192021
 

俺は「心理学をやっている」という人間を信用していない。こういう人間は大抵「自分は人間の心理を熟知している」と思い上がり、他人をコントロールしようとしたり、対話のテクニックを使って会話しようとしたりするので、逆に信用できない。
そもそも日本の精神科医なんてのは、バカスカ薬を出して薬漬けにして延々意味もなく通院させたり、特に理由もなく入院させたりして、医師としての能力が極めて低い者が多い。「患者を治療する」という発想のない日本の精神医学、あんなものは医療ではない。
そして日本の精神医学の基礎になっているのが、ユング心理学である。あくまでも俺は門外漢として外部からの印象を語ることしかできないが、ユングというのは海外ではオカルト扱いされて、日本のように「精神医学の基礎」とはみなされていないという。
元々精神医学を開拓したフロイトが、後にユングと出会い、しばらくウィーンで共同で研究をして、その後戦争が起こり二人は別れたと言われている。しかしユングはその後ナチスの幹部になり、どこかの省庁の副局長になったはずである。俺の想像では、フロイトの研究成果をドイツに持ち帰り、それをナチスに提供して、宣伝相や心理戦に応用させたのではないかと思う。そうでもなければナチスがあれだけ心理をコントロールする戦術を多用できたはずはない。
俺がいつも思うのは、ユングの言う根本原理である「共時性」であるが、なぜ日本人はこれを真に受けるのか不思議でならない。共時性というのは要するに「どこにでも似たようなものは現れる、それらは共通の無意識がもたらすものであり、みな偶然である」ということだ。そしてそれを、神話モチーフが各地で共通性を持つこと等に求める。だが、そもそも彼らゲルマン民族というかアーリア民族は、元が印欧祖語を話す同じ民族である。だから神話モチーフが共通しているのも当然である。印欧比較神話学がとっくの昔に確立していたヨーロッパで、ユングの主張を真に受ける者など皆無であった。こういうことなどから、ユングの学説は欧米ではオカルト扱いされているという。
そしてその逆に、フロイトの学説の基本は「何にでもルーツ・起源がある」と考え、その根本原因を探ることであった。ここにフロイトとユングの決定的な違いがある。フロイトは「似たような物事があったら起源を探る」という発想であり、ユングは「似たような物事があっても偶然である」という発想だ。
これは日本の同和問題を考える上で、「人種起源説」を採るか「政治起源説」を採るか、という問題とシンクロしている。もしフロイト的に考えるなら、日本の同和問題と外国の差別問題を比較して共通の起源はないか探ろう、ということになり、そこには共通の人種が介在しているのでは、と考えることである。しかしユング的に考えるなら、日本の同和問題と外国の差別問題は似ているがただの偶然であり、日本でも外国でもそれは体制が作った制度であって、似た制度がともに存在するのは偶然である、という考えになる。
だから俺は、日本で妙にユング心理学を拝聴する傾向が強いのは、部落解放同盟の影響があるからではと考えている。言うまでもなく、部落解放同盟は政治起源説だからだ。
心理学者や精神科医と話すと、二言目には「ああそれは偶然だよ」「似たようなことはどこでも現れる」と言う。俺はこういうのは、ただのバカの妄言だと思う。要するに、物事のルーツを探ろうとせずに、何でも偶然偶然と片付けるのは、知の探求を放棄したバカの考え方だ。そして日本の精神医学界は、こういう連中で占められている。
日本はガラパゴス島国の国ゆえ、「日本でしか通用しないこと」がたくさんある。ユング心理学もその一つだと思うが、これを意図的に広めようとしているマスコミや作家などは、何を意図しているのかね?「日本の宣伝相」などはナチスの宣伝相の理論を参考にしているらしいので、大いにユングや河合隼雄には負うところがあるのだろうが。

9月 242021
 

世の中には2種類の人間がいて、俺は「数の少ない方」に属する。それは「自分を高めることによって喜びを見出す」人種だ。
俺が幸せを感じるのは、自分が高まった時のみである。例えばPCを自作して楽しんだり、部屋をリフォームして綺麗にしたり、運動を始めて健康になったり、そういう「自分を高める」行為にのみ、幸せを感じる。
そして、他人が幸せなら、素直に「羨ましい」と思い、「自分もそうなりたい」と思う。逆に不幸な他人がいたら、「可哀想」と思い、その人には「幸せになってほしい」と思う。
しかし・・・世の中には、こういう「俺がわかっている常識」がわからない者の方が多い。それは「他人が不幸なことに喜びを見出す」人種で、自分の要素の高低を問題にするのではなく、「他人がどうであるか」もっと言えば「他人と比べて自分がどうであるか」を重視する人種である。
こういう人種は、「他人の不幸は蜜の味」という基本理念を持っていて、他人の不幸が嬉しくて仕方がない。自分の楽しみを見出してそれを高めることをせずに、他人の粗探しをして些細な欠点を見つけて喜ぶとか、他人が不幸な目に遭うことを望んだりとか、とにかく「他人がどうであるか」しか考えていない。
当然、他人が幸せなら「ムカつく」と思い、そういう人の足を引っ張る。不幸な他人がいたら「ざまあみろ」と思い、一緒になって喜ぶ。
さあ皆さん、あなたは果たして、前者ですか?後者ですか?・・・日本人であれば、多くの場合後者でしょうね。そう、「出る杭は打たれる」「他人の足を引っ張る」という腐った文化が根付いた、島国日本。そんな日本の人間であれば、大抵の場合後者でしょう。
もしあなたが後者なのであれば、あなたは間違いなく「クズ」です。日本でしかやっていけない害虫です。あなたはウジ虫なので、地球にとって必要のない、臭く汚い汚物です。でもこれを読んでいるほとんどの人は、害虫でウジ虫で汚物なんだよなあ。
日本人ってさ、「絶対的価値観」と「相対的価値観」の違い、わからないでしょ?絶対的幸福と相対的幸福と書き換えてもいい。絶対的幸福というのは、「自身を高めることによって喜びを得る」価値観で、要するに「=他人に構っている暇はない」だから、(俺も含めた)天才に多いタイプ。逆に相対的幸福というのは、「他者と比べて優位に立って喜びを得る」価値観で、つまり「=他人との比較が全て」だから、ほとんど全ての凡人と愚民はこれに当たる。そして日本人というのは、狭い島国で横並びに生きてきたから、基本は「相対的幸福感」が支配している。
まあ最近の日本は個人主義になって、必ずしもそうだとは言えなくなったかもしれないけど、今でも「他人に関わることを前提とする職業」に就いている連中は、相対的幸福に基づいて生きていると思うよ。警察官とか精神科医とか広告代理店の社員とか、エトセトラetc… こういう連中は「他人が不幸であることが、自分の喜び」みたいなものなので、自身を高めることは二の次で、「他人をどうするか」しか考えていない。一番関わってはいけない人種である。
俺みたいに絶対的幸福を追求するタイプの人間は数は少ないけど、俺を見ればわかる通り、「どこに行っても楽しく暮らせる」という特技を持っている。そして自身を高めることに注力するので、学問に関しても他の追随を許さない。こういう人生を、昔の人は「武士は食わねど高楊枝」とも言ったし、「霞を食って生きる仙人」とも言った。
そういうわけだから、もしあなたが幸せになりたいなら、他人と比べるのをやめよう。能力でも要素でも何でもいいけど、自分を高めることに専念すると、傍からは底辺と見えても充分に楽しく暮らせるのだ。

8月 162021
 

最近「異世界転生もの」がアニメでいっぱいやっている。毎クール1つはその手のがある。なぜ「異世界転生」というのがこんなに持て囃されるのかといったら、「小説家になろう」で人気のテーマだからだという。しかしこれだけしつこく異世界転生異世界転生というからには、やはり何らかの情報操作や作為みたいなものが含まれていると思われる。
「異世界転生」というのは、要するに「輪廻転生」のことだ。生まれ変わったら別の全く存在になるという考え方だ。インドの支配思想であるこの考え方は、インドのカースト制度を支えている考え方だ。なぜなら、「人生は一度きりだから社会に悪いところがあったら世の中を改善しなければならない」と考えるのと、「世の中に悪いところがあっても生まれ変わったらもっと良くなるかもしれない、だから諦めよう」と考えるのは真逆だからである。輪廻転生思想があるから、インドはカースト制度が永遠になくならない。
こういう「世の中に悪いところがあったら改善しなければならない」と考えるのは、為政者にとってはもっとも邪魔な考えだろう。社会を変革するという考え方は、突き詰めれば革命思想であるからだ。そこまで行かなくても、世の中を改善しようという考え方を為政者は最も嫌う。
だから体制は、テレビアニメを使って異世界転生ものを大量に垂れ流し、「世の中に悪いところがあっても生まれ変わればもっと良くなるかもしれない、だから諦めろ」というメッセージを大衆に流布している。「世の中に悪いところがあっても改善しようなどと考えるな、社会を変革しようなどと考えるな、ただ諦めていればよい」という無言のメッセージが、そこには込められている。
所詮テレビアニメと侮るなかれ、こういう草の根的なコントロールから、大衆の思想操作は始まるのである。かつてジャンプ漫画を使って執拗に「命の蘇り」を流布した結果、自殺者数やイジメ自殺の数はどうなったか。アニメを見るのは子供だから、今の子供が大人になった時、「社会に対する諦め」「改善の意志の喪失」が基本原理になっているかもしれない。
まあメディアなんてのは万事こういうもので、我々大衆をバカにしてコントロールすることしか考えていない。だから見る価値はない。

7月 042021
 

俺が同和と在日が大っ嫌いなのはもう書くまでもないだろうが、なぜあいつらを嫌いかというと、一番の理由は「陰で繋がっているから」だ。
10数年前に「同和利権の真相」という本が別冊宝島から出てベストセラーになったけど、あれに奴らのことが「人権秘密警察」と書かれていたが、そう、要するにあいつらは秘密警察である。「誰がそうなのかわからない」という点で、同和と在日はそのまんま秘密警察である。
普通の国だったら、秘密警察なんて市民から一番嫌われて、もしその関係者だとわかったら皆から相手にされなくなるような、まさに一番嫌われる存在の最たるものだが、どういうわけか日本人は、そういう関係者になることが嬉しくて仕方がないようだ。まあ確かにそういう関係者になるといい暮らしができるし、いい職業にも就ける。だからそういう関係者になることは魅力的なのかもしれない。
けれど普通の国なら、いくらいい暮らしができるといっても、「人としての誇り」がそういう関係者になることを自分に許さないのが普通だと思う。ではなぜ日本人は喜々としてその中に加わるのかといったら、やはり「奴隷根性」だろう。
鹿島昇や佐治芳彦(俺はこの人達を支持するわけでは全くないけど)の本を読んでいたら、「日本人は奴隷に最適な民族です」と書かれていたし、彼らは「日本は完全な監視社会ですからね」とも書いていた。まあ彼らは日本のアンタッチャブルな存在とも交流のある人間だし、いろいろ知っているんだろう。そういう人間が言う通り、日本人ほど奴隷根性が染み付いた民族はいない。何というか「権力に擦り寄ることは気持ちいい」と考えているというか・・・。
普通の国なら権力に逆らうことは基本というか、「権力=悪いもの」という考え方がどこでも基本だと思うが、日本だけは不思議なことに「権力=正しいもの」と考えがちだと思う。それは時代劇で、ひたすら「お上が世直しをする」というテーマの作品ばかり作り続けていたり、テレビドラマでくだらない「警察の提灯担ぎもの」ばかり作り続けていることを見ても明らかだ。なぜ日本人は、「偉い人は正しい」「権力は正しい」と考えるのか。南米でさえそんなことを思っている人間は日系人くらいしかいなかった。
こういう奴隷根性が、自分も権力の手先になりたいという発想を抱かせるのだろうか。それで監視社会は正しいと思い、自分もその一員に加わって、いわんや子供にも同じことをさせる。その結果いい暮らしをしていい職業に就ければそれでいいのだ・・・これが大多数の日本人である。ぶっちゃけ同和と在日だけではあるまい。
一度ネットで、そういう関係者のことを「こいつは◯◯だ」と(本名ではないけど)書いてやったら、そいつはものすごく動揺していた。そう、あいつらは、自分がそういう人間であることをはっきり言われると、ものすご~く動揺するのだ。要するに精神的には脆弱で幼稚なのである。
俺自身は何の繋がりにも入っていないし何の組織にも所属していない、ただの人だ。けれど生活は底辺だ。これが「人としての誇り」を重視した結果かといわれると、正直わからない。けれど他の奴とできるだけ関わりたくないので、必然的にこうなった。俺と付き合える人間は極めて限定されるが、もし付き合えるなら、それは人として誇っていい。
「武士は食わねど高楊枝」とは、こういうことだ。

6月 152021
 

俺は学生の頃からずっと、学問で認められたいと思っていた。けれど俺はずっと勘違いをしていたが、学校というところは、「既存の知識」「通説」を詰め込むところなんだな。
既存の知識を疑ったり、通説を疑ったりしてはいけないんだな。
舛添要一さんの言っていることを見るとよくわかるが、大学の先生になるような人は、「既存の知識に従う」「通説に従う」ことが求められるんだな。
俺は学問に必要なのは、「既存の知識を疑う」「通説を疑う」姿勢だと思っていたが、それは違うんだと、ようやく気づいた。コペルニクスもガリレオも望まれてはいないのだ、と。
だから俺のことを認めるわけにはいかない、という不文律があるんだな。

これに気づくまでに非常に長い時間がかかった。「コペルニクスもガリレオも望まれてはいない」・・・それが世界だと。望まれているのはEvolutionistであってRevolutionistではないのだ、と。40数年生きてきて、今ようやくわかった。
たとえローマ法王が辞任しようとも、それが世界だ。我々が生きていかねばならないBirdcageだ。

5月 092021
 

日本が戦争に負けて戦勝国の支配を受けるようになって、「日本弱体化」というのが様々な分野で行われている、というのは所々の本に書いてある。そういうのの一環として、「日本民族総腰抜け化」というのもあると思う。
海外に行って思ったが、日本民族(の大半)はどこでも一緒だ。常に「バックが付いている」ことを前提に行動している。どいつもこいつも、一人では何もできない。それは日本列島の日本人も一緒、移民した連中も一緒。常に「背後に何かが付いている」ことを前提に行動している。
こういう民族に日本人が成り下がったのは、戦前からなのか、それとも戦後なのか、俺の知るところではない。けれど戦争中の日本人は勇敢だったし、そもそも戦場で兵士として戦うのであれば、そういう考えがあったのでは使い物にならないだろう。実際にあいつらは、一人でいるところに喧嘩を売りに行くと必ず逃げるようなヘタレだし。
日本が全体主義的だとか監視国家だとか警察国家だというのは、言う人は言っていることだし実際にそうだ。こういうことを否定する人間がいたら、取りも直さずそいつ自身がそういう連中の一味なので、聞く価値はない。人間というのは、自分自身のことを明らかにされるのを一番嫌うからだ。
こういう国家形態をよしとしたのが、過去の為政者の何某だったのか、それは知らない。けれどこういう国に日本をしてしまって、喜んでいるのは実際には戦勝国だろう。なぜなら、こういう国であれば皆が「バックが付いている」ことを前提に生きているので、つまり兵士としては何の役にも立たず、であれば軍隊が極めて弱い国になるからだ。
果たして「バックが付いている」ことを前提に生きている、一人では喧嘩もできないヘタレが、戦場で銃を撃てるかね?こういう連中は兵士としては全く役に立たない。そして日本で良い地位に就けるのは、ひとえにこういう奴らだ。だから日本は戦前のように皆が勇敢な兵士として戦うことは不可能だ。調子こいてる連中ほど、戦場ではクソの役にも立たない腰抜けである。
こういう日本弱体化は様々なところに及んでいるだろうから、気がついたら日本はGDPは先進国最低、成長率はマイナス、平均給与もOECD中最下位とか、そんなふうになってしまった。そして「バックが付いていればいいんだ」と考えている連中がエスタブとして偉そうにして、自分たちのことだけ考えて良い暮らしをしているから、もはや取り返しがつかない。戦勝国はほくそ笑んでいるだろう。
そして俺の親戚のように、こういう国が理想だと思っている奴は、頑なにそれを認めようとしない。綺麗事を抜かす奴は、要するにこいつらの一味である。戦争に行っても一番使い物にならない奴である。俺はこういう奴らをゴマンと見てきたが、いつも「ああ戦場に行っても敵に引き金も引けないで尻込みするヘタレなんだろうなあ」と思ってきた。戦場で実際に敵と戦って死ぬのは、俺みたいな何の後ろ盾もない一般市民なんだろうな、と冷ややか~に思っていた。
これに関しては神のみぞ知る。

4月 182021
 

よく「ユダヤ人は自分たち以外をゴイム、すなわち豚と呼び、彼らの支配を謀っている」という。俺は直接のユダヤ人の知り合いはいないわけではないが、果たしてこれは本当だろうか。
日本においてユダヤ人の生態を知るのに最適なサンプルが、同和と在日だ。俺が古代史の文章に書いたことを読めば、要するに「秦氏=同和・在日」なのはわかるかもしれない。秦氏=ユダヤ人だから、要するに同和と在日というのはユダヤ人である。
それは、両者の言っていることがそのまま同じであることからもわかるだろう。やれ「自分たちは差別されている」だの「自分たちは苦難の歴史を歩んできた」だのと抜かし、日本でも世界でもどこでも固まって住んでゲットーを形成し、その反面金融の力を使って世の中を支配している。日本でも海外でも、こいつらの支配分野はほぼ一緒だ。金融・芸能・学問など。だから日本の同和と在日を観察することは、取りも直さずユダヤ人の生態を観察することに等しいので、非常に興味深い。
「ユダヤ人が自分たち以外を豚とみなしている」というのは、つまり「選民思想」だ。もっと言えば「自分たちだけが人間である」という考え方である。自分たちだけが人間であって、それ以外は人間ではない。だから自分たちは何をしても許されるのだ--というのが、ユダヤ人の考え方だと言われる。
俺はこれも、多分本当のことだと思う。なぜなら日本の同和と在日が、凄まじいまでの選民思想を持っているからだ。マジでこいつらは、自分たち以外を人間だと思っていない。自分たちと、自分たちが認めたそれ以外の人種、それだけが世の中を構成すればよいと思っている。俺は学生時代からこいつらを注意深くそして興味深く観察してきたが、本当~にものすごい選民思想で、こいつらの根拠のない自信はどこから来るのか、それは「体制」「権力」と結びついているところから来ると今はわかっているが、まあ本当に超ド級に凄まじいばかりの選民思想で、こりゃ歴史を通じて嫌われてきても当然だな、とつくづく思った。
「嫌悪」と「差別」、つまり「嫌っている」のか「差別している」のか、という問題だが、同和と在日の連中はこれについて詭弁を弄す。すなわち、「自分たちは差別されている。だから自分たちは他の奴らを嫌う」という詭弁だ。同和と在日の連中のやっていることは紛れもない「差別」なのに、彼らは「俺達はおまえのことが嫌いなんだ」という物言いをして、自分たちが他者を差別していることを正当化しようとする。
これはユダヤ人も同じで、彼らは「歴史上ずっと差別迫害されてきた」というテーゼを正当化・事実化してしまっているので、自分たちを嫌う者がいても「それは差別だ」と言いがかりをつけることが大っぴらに認められていて、それはナチス・ドイツの失敗によりもはや覆ることはない。それをいい事にして、自分たちへの批判を全て「それは差別だ」と言い換える正当な権利を得てしまっている。
果たして、徒党を組んで体制や権力を味方につけ、世の中を恣意的に動かしている連中は、「差別」されているのか「嫌悪」されているのか。いくらユダヤ人や同和や在日の連中が詭弁を弄しても、実際に嫌悪され嫌われているのは自分たちの方である。けれど彼らに「君たちは差別なんてされてない。ただ嫌われているだけだ」と言ったところで、彼らは既に狂っているので理解できないだろう。
彼らが狂っていると考えれば説明のつくことはいろいろある。俺の感想では、彼らの意識というのは後天的なものではなく先天的なもので、教育によって身に付いたものではなく、もはや遺伝子レベルで体に染み込んでいるとしか思えない。俺が観察してきた同和と在日は、それくらい狂った差別者だった。もはや言ってどうにかなるというレベルではなかった。
そして俺はキリスト教徒の端くれだが、(現在の)キリスト教というのは事実上、ユダヤ人の奴隷である。キリスト教の聖職者と言われる人間を何人か知っているが、一人残らず「ユダヤ人は聖なる民族」だという考えをしていた。一体歴史をどう学べばユダヤ人が聖なる民族になるのか俺にはわからないのだが、神学校の洗脳教育はそういうものなのだろう。前々にも書いた通り、これが「俺がキリスト教会に行きたくない理由」である。あんな自分たち以外を差別ばかりしているクズ共を神聖視する宗教、そんなものを盲目的に信じる奴はバカだ。俺は自分が信ずる宗教であっても、批判的に自分で勉強しない奴はただのバカだと思っている。
日本にいても、ユダヤ人がどういう生態なのかは何となくわかる、という例を挙げたが、日本のユダヤ人つまり秦氏はダン族なので、その中でも最悪の奴らだ。その辺は俺の古代史の文章をよく読まれたし。