12月 282021
 

俺の最も好きな作家の一人である筒井康隆が、歳をとった感想を聞かれて、「老人になるのは初めてなので、何もかも新鮮」と答えたらしい。さすがは筒井老、普通の人とは考え方が違う。
確かに、子供の頃にしか経験できないこともあるし、大人にならないと経験できないこともあるし、老人にならないとわからないこともある。そういう意味では、「死こそ最大の楽しみ」である。一体死とはどういうものなのか。死ぬとは、どのような体験であるのか。実を言うと、俺は死ぬのが(ある意味)楽しみである。もちろんそれに至る苦痛は経験したくないが、死ぬというのはどういうものなのか経験してみたいと思っている。そういう意味では、俺は死を全く怖れていない。

「人間」と「死」をテーマにした作品といえば、手塚治虫の「火の鳥」がある。俺はこの作品をしばしば読み直すが、医師でもあった手塚治虫の死生観を反映しているというか、つまるところ「永遠の命なんてものは無い」というのが結論である。「永遠の命を求めることは虚しい」というのも結論である。
大体神であるはずの火の鳥自身でさえ不死身ではなく、「黎明編」であっさり人間に殺されてしまう。そして火の鳥の血を舐めて不老不死になる人間は確かに出てくるけど、皆不幸である。不老不死になりその結果幸せになる人間というのは、作品中一度も出てこないはずだ。
俺が「火の鳥」を読んで印象に残っているのは、終章の「太陽編」である。これは狼の仮面を被った男の物語だが、狼というのはイスラエル十二支族のベニヤミン族のことであって、太陽編というのはつまり太陽信仰のことである。作品を通じて永遠に輪廻転生を繰り返すサルタヒコがいて、彼は結局最後まで輪廻の輪から抜けられない。けれど狼の仮面を被った男は「もうこんな連中に付き合うのはやめよう」と輪廻の輪から抜け、愛する女性とともに別の世界へ旅立ってゆく。
手塚治虫は古代史にも造詣の深い人物だったろうから、太陽信仰が持つ意味と、サルタヒコが象徴する存在が何であるか、よく判っていたはずだ。そう、日本の「何某」かを象徴するサルタヒコは、輪廻の輪から抜けられない。だから狼は彼らに愛想を尽かし、「太陽」に向かって飛んで行く。それが不老不死と永遠の命をテーマにした作品の結末である。

「明日死ぬかのように生き、永遠に生きるかのように学べ」と言ったのはガンジーだったかと思うが、要するに「精一杯生きろ」ということだ。俺は?生きてるよ精一杯。ザ・フーのキース・ムーンが死んだ時、「生き急いでいるようだった」と言われたそうだが、俺も昔は生き急いでた。だから急ぐのはやめた。けど精一杯生きている。

12月 162021
 

ここ最近ずっとやってたボーダーランズ2を、DLCも含めてクリアした。いやー面白かった。サイドクエストは半分もやってないけど、それでも60時間以上楽しめた。文句なしに今年やったゲームで一番の面白さだった。明日からやるゲームはすでに買ってあるXCOM2で、これで年越しをしようと思う。

昨日から考えてたけど、なんちゅーか「他人の足を引っ張る」のが好きな奴っておるやん?自分のことはそっちのけで、他人の邪魔ばかりしてる奴。俺はこういう奴に迷惑させられることが多いんだけど、こういう奴らの「存在意義」について、あれこれ考えていた。
で気づいたのは、結局世の中には二種類の人間がいるということ。それは「世の中を進歩させようとする者」と「世の中の進歩を阻害する者」だ。このうち後者は、「=他人の足を引っ張る奴」と同義だと思う。
世の中を進歩させようとする者とは、要するに革命家であったり、新しいテクノロジーを生み出す者だったり、新しい理論を考える者だったりする。俺はもちろんこちら側に属し、自分で学生時代からずっと勉強していた理由は、世の中を変えたいという願望があったからである。
けれどそういう変革を望まない人間が少なからずいて、それが進歩を阻害する者である。そういう奴らは既得権益だったり、要するにエスタブや王侯貴族みたいな連中がそうである。そしてそれ(=体制)を守るための手先として、警察や官憲があるわけだ。もちろん宗教権威も同じである。こういう奴らは、他人特に変革者の足を引っ張って、世の中を変革させまいとする。これが「足を引っ張る」ことの原義である。
だから要するに、警察とか精神科医とか聖職者とか他にもマスコミなんてのは、ゴリゴリの既得権益でありエスタブなので、他人の足を引っ張るのは当然なのだ。なぜならそれが彼らの仕事であり存在意義だからである。彼らは他人の足を引っ張ることで飯を食い、世の中を変革させまいと、変革を望む者を陥れて縄にかける。彼らは権力や体制の手先なので、世の中が変革してしまっては困るから、ひたすら他人の足を引っ張り、他人の邪魔をする。
日本が「他人の足を引っ張る」文化だというのは古くから言われることだが、これは結局、日本が天皇制だからだろう。この何の根拠もないのに偉い立場に座っている連中を崇める体制を変えさせないために、他人の足を引っ張る=世の中を変革させまいとする文化が闊歩している。

俺のように変革を望む者は阻害されて落とされる。So it goes. そういうものだ。けれど肝心の「彼ら」は、果たしてその立場を望んでいるのかな?籠の中の鳥は、外を自由に飛び回りたいと思っているのではないかな?

10月 192021
 

俺は「心理学をやっている」という人間を信用していない。こういう人間は大抵「自分は人間の心理を熟知している」と思い上がり、他人をコントロールしようとしたり、対話のテクニックを使って会話しようとしたりするので、逆に信用できない。
そもそも日本の精神科医なんてのは、バカスカ薬を出して薬漬けにして延々意味もなく通院させたり、特に理由もなく入院させたりして、医師としての能力が極めて低い者が多い。「患者を治療する」という発想のない日本の精神医学、あんなものは医療ではない。
そして日本の精神医学の基礎になっているのが、ユング心理学である。あくまでも俺は門外漢として外部からの印象を語ることしかできないが、ユングというのは海外ではオカルト扱いされて、日本のように「精神医学の基礎」とはみなされていないという。
元々精神医学を開拓したフロイトが、後にユングと出会い、しばらくウィーンで共同で研究をして、その後戦争が起こり二人は別れたと言われている。しかしユングはその後ナチスの幹部になり、どこかの省庁の副局長になったはずである。俺の想像では、フロイトの研究成果をドイツに持ち帰り、それをナチスに提供して、宣伝相や心理戦に応用させたのではないかと思う。そうでもなければナチスがあれだけ心理をコントロールする戦術を多用できたはずはない。
俺がいつも思うのは、ユングの言う根本原理である「共時性」であるが、なぜ日本人はこれを真に受けるのか不思議でならない。共時性というのは要するに「どこにでも似たようなものは現れる、それらは共通の無意識がもたらすものであり、みな偶然である」ということだ。そしてそれを、神話モチーフが各地で共通性を持つこと等に求める。だが、そもそも彼らゲルマン民族というかアーリア民族は、元が印欧祖語を話す同じ民族である。だから神話モチーフが共通しているのも当然である。印欧比較神話学がとっくの昔に確立していたヨーロッパで、ユングの主張を真に受ける者など皆無であった。こういうことなどから、ユングの学説は欧米ではオカルト扱いされているという。
そしてその逆に、フロイトの学説の基本は「何にでもルーツ・起源がある」と考え、その根本原因を探ることであった。ここにフロイトとユングの決定的な違いがある。フロイトは「似たような物事があったら起源を探る」という発想であり、ユングは「似たような物事があっても偶然である」という発想だ。
これは日本の同和問題を考える上で、「人種起源説」を採るか「政治起源説」を採るか、という問題とシンクロしている。もしフロイト的に考えるなら、日本の同和問題と外国の差別問題を比較して共通の起源はないか探ろう、ということになり、そこには共通の人種が介在しているのでは、と考えることである。しかしユング的に考えるなら、日本の同和問題と外国の差別問題は似ているがただの偶然であり、日本でも外国でもそれは体制が作った制度であって、似た制度がともに存在するのは偶然である、という考えになる。
だから俺は、日本で妙にユング心理学を拝聴する傾向が強いのは、部落解放同盟の影響があるからではと考えている。言うまでもなく、部落解放同盟は政治起源説だからだ。
心理学者や精神科医と話すと、二言目には「ああそれは偶然だよ」「似たようなことはどこでも現れる」と言う。俺はこういうのは、ただのバカの妄言だと思う。要するに、物事のルーツを探ろうとせずに、何でも偶然偶然と片付けるのは、知の探求を放棄したバカの考え方だ。そして日本の精神医学界は、こういう連中で占められている。
日本はガラパゴス島国の国ゆえ、「日本でしか通用しないこと」がたくさんある。ユング心理学もその一つだと思うが、これを意図的に広めようとしているマスコミや作家などは、何を意図しているのかね?「日本の宣伝相」などはナチスの宣伝相の理論を参考にしているらしいので、大いにユングや河合隼雄には負うところがあるのだろうが。

9月 242021
 

世の中には2種類の人間がいて、俺は「数の少ない方」に属する。それは「自分を高めることによって喜びを見出す」人種だ。
俺が幸せを感じるのは、自分が高まった時のみである。例えばPCを自作して楽しんだり、部屋をリフォームして綺麗にしたり、運動を始めて健康になったり、そういう「自分を高める」行為にのみ、幸せを感じる。
そして、他人が幸せなら、素直に「羨ましい」と思い、「自分もそうなりたい」と思う。逆に不幸な他人がいたら、「可哀想」と思い、その人には「幸せになってほしい」と思う。
しかし・・・世の中には、こういう「俺がわかっている常識」がわからない者の方が多い。それは「他人が不幸なことに喜びを見出す」人種で、自分の要素の高低を問題にするのではなく、「他人がどうであるか」もっと言えば「他人と比べて自分がどうであるか」を重視する人種である。
こういう人種は、「他人の不幸は蜜の味」という基本理念を持っていて、他人の不幸が嬉しくて仕方がない。自分の楽しみを見出してそれを高めることをせずに、他人の粗探しをして些細な欠点を見つけて喜ぶとか、他人が不幸な目に遭うことを望んだりとか、とにかく「他人がどうであるか」しか考えていない。
当然、他人が幸せなら「ムカつく」と思い、そういう人の足を引っ張る。不幸な他人がいたら「ざまあみろ」と思い、一緒になって喜ぶ。
さあ皆さん、あなたは果たして、前者ですか?後者ですか?・・・日本人であれば、多くの場合後者でしょうね。そう、「出る杭は打たれる」「他人の足を引っ張る」という腐った文化が根付いた、島国日本。そんな日本の人間であれば、大抵の場合後者でしょう。
もしあなたが後者なのであれば、あなたは間違いなく「クズ」です。日本でしかやっていけない害虫です。あなたはウジ虫なので、地球にとって必要のない、臭く汚い汚物です。でもこれを読んでいるほとんどの人は、害虫でウジ虫で汚物なんだよなあ。
日本人ってさ、「絶対的価値観」と「相対的価値観」の違い、わからないでしょ?絶対的幸福と相対的幸福と書き換えてもいい。絶対的幸福というのは、「自身を高めることによって喜びを得る」価値観で、要するに「=他人に構っている暇はない」だから、(俺も含めた)天才に多いタイプ。逆に相対的幸福というのは、「他者と比べて優位に立って喜びを得る」価値観で、つまり「=他人との比較が全て」だから、ほとんど全ての凡人と愚民はこれに当たる。そして日本人というのは、狭い島国で横並びに生きてきたから、基本は「相対的幸福感」が支配している。
まあ最近の日本は個人主義になって、必ずしもそうだとは言えなくなったかもしれないけど、今でも「他人に関わることを前提とする職業」に就いている連中は、相対的幸福に基づいて生きていると思うよ。警察官とか精神科医とか広告代理店の社員とか、エトセトラetc… こういう連中は「他人が不幸であることが、自分の喜び」みたいなものなので、自身を高めることは二の次で、「他人をどうするか」しか考えていない。一番関わってはいけない人種である。
俺みたいに絶対的幸福を追求するタイプの人間は数は少ないけど、俺を見ればわかる通り、「どこに行っても楽しく暮らせる」という特技を持っている。そして自身を高めることに注力するので、学問に関しても他の追随を許さない。こういう人生を、昔の人は「武士は食わねど高楊枝」とも言ったし、「霞を食って生きる仙人」とも言った。
そういうわけだから、もしあなたが幸せになりたいなら、他人と比べるのをやめよう。能力でも要素でも何でもいいけど、自分を高めることに専念すると、傍からは底辺と見えても充分に楽しく暮らせるのだ。

8月 162021
 

最近「異世界転生もの」がアニメでいっぱいやっている。毎クール1つはその手のがある。なぜ「異世界転生」というのがこんなに持て囃されるのかといったら、「小説家になろう」で人気のテーマだからだという。しかしこれだけしつこく異世界転生異世界転生というからには、やはり何らかの情報操作や作為みたいなものが含まれていると思われる。
「異世界転生」というのは、要するに「輪廻転生」のことだ。生まれ変わったら別の全く存在になるという考え方だ。インドの支配思想であるこの考え方は、インドのカースト制度を支えている考え方だ。なぜなら、「人生は一度きりだから社会に悪いところがあったら世の中を改善しなければならない」と考えるのと、「世の中に悪いところがあっても生まれ変わったらもっと良くなるかもしれない、だから諦めよう」と考えるのは真逆だからである。輪廻転生思想があるから、インドはカースト制度が永遠になくならない。
こういう「世の中に悪いところがあったら改善しなければならない」と考えるのは、為政者にとってはもっとも邪魔な考えだろう。社会を変革するという考え方は、突き詰めれば革命思想であるからだ。そこまで行かなくても、世の中を改善しようという考え方を為政者は最も嫌う。
だから体制は、テレビアニメを使って異世界転生ものを大量に垂れ流し、「世の中に悪いところがあっても生まれ変わればもっと良くなるかもしれない、だから諦めろ」というメッセージを大衆に流布している。「世の中に悪いところがあっても改善しようなどと考えるな、社会を変革しようなどと考えるな、ただ諦めていればよい」という無言のメッセージが、そこには込められている。
所詮テレビアニメと侮るなかれ、こういう草の根的なコントロールから、大衆の思想操作は始まるのである。かつてジャンプ漫画を使って執拗に「命の蘇り」を流布した結果、自殺者数やイジメ自殺の数はどうなったか。アニメを見るのは子供だから、今の子供が大人になった時、「社会に対する諦め」「改善の意志の喪失」が基本原理になっているかもしれない。
まあメディアなんてのは万事こういうもので、我々大衆をバカにしてコントロールすることしか考えていない。だから見る価値はない。

7月 042021
 

俺が同和と在日が大っ嫌いなのはもう書くまでもないだろうが、なぜあいつらを嫌いかというと、一番の理由は「陰で繋がっているから」だ。
10数年前に「同和利権の真相」という本が別冊宝島から出てベストセラーになったけど、あれに奴らのことが「人権秘密警察」と書かれていたが、そう、要するにあいつらは秘密警察である。「誰がそうなのかわからない」という点で、同和と在日はそのまんま秘密警察である。
普通の国だったら、秘密警察なんて市民から一番嫌われて、もしその関係者だとわかったら皆から相手にされなくなるような、まさに一番嫌われる存在の最たるものだが、どういうわけか日本人は、そういう関係者になることが嬉しくて仕方がないようだ。まあ確かにそういう関係者になるといい暮らしができるし、いい職業にも就ける。だからそういう関係者になることは魅力的なのかもしれない。
けれど普通の国なら、いくらいい暮らしができるといっても、「人としての誇り」がそういう関係者になることを自分に許さないのが普通だと思う。ではなぜ日本人は喜々としてその中に加わるのかといったら、やはり「奴隷根性」だろう。
鹿島昇や佐治芳彦(俺はこの人達を支持するわけでは全くないけど)の本を読んでいたら、「日本人は奴隷に最適な民族です」と書かれていたし、彼らは「日本は完全な監視社会ですからね」とも書いていた。まあ彼らは日本のアンタッチャブルな存在とも交流のある人間だし、いろいろ知っているんだろう。そういう人間が言う通り、日本人ほど奴隷根性が染み付いた民族はいない。何というか「権力に擦り寄ることは気持ちいい」と考えているというか・・・。
普通の国なら権力に逆らうことは基本というか、「権力=悪いもの」という考え方がどこでも基本だと思うが、日本だけは不思議なことに「権力=正しいもの」と考えがちだと思う。それは時代劇で、ひたすら「お上が世直しをする」というテーマの作品ばかり作り続けていたり、テレビドラマでくだらない「警察の提灯担ぎもの」ばかり作り続けていることを見ても明らかだ。なぜ日本人は、「偉い人は正しい」「権力は正しい」と考えるのか。南米でさえそんなことを思っている人間は日系人くらいしかいなかった。
こういう奴隷根性が、自分も権力の手先になりたいという発想を抱かせるのだろうか。それで監視社会は正しいと思い、自分もその一員に加わって、いわんや子供にも同じことをさせる。その結果いい暮らしをしていい職業に就ければそれでいいのだ・・・これが大多数の日本人である。ぶっちゃけ同和と在日だけではあるまい。
一度ネットで、そういう関係者のことを「こいつは◯◯だ」と(本名ではないけど)書いてやったら、そいつはものすごく動揺していた。そう、あいつらは、自分がそういう人間であることをはっきり言われると、ものすご~く動揺するのだ。要するに精神的には脆弱で幼稚なのである。
俺自身は何の繋がりにも入っていないし何の組織にも所属していない、ただの人だ。けれど生活は底辺だ。これが「人としての誇り」を重視した結果かといわれると、正直わからない。けれど他の奴とできるだけ関わりたくないので、必然的にこうなった。俺と付き合える人間は極めて限定されるが、もし付き合えるなら、それは人として誇っていい。
「武士は食わねど高楊枝」とは、こういうことだ。

6月 152021
 

俺は学生の頃からずっと、学問で認められたいと思っていた。けれど俺はずっと勘違いをしていたが、学校というところは、「既存の知識」「通説」を詰め込むところなんだな。
既存の知識を疑ったり、通説を疑ったりしてはいけないんだな。
舛添要一さんの言っていることを見るとよくわかるが、大学の先生になるような人は、「既存の知識に従う」「通説に従う」ことが求められるんだな。
俺は学問に必要なのは、「既存の知識を疑う」「通説を疑う」姿勢だと思っていたが、それは違うんだと、ようやく気づいた。コペルニクスもガリレオも望まれてはいないのだ、と。
だから俺のことを認めるわけにはいかない、という不文律があるんだな。

これに気づくまでに非常に長い時間がかかった。「コペルニクスもガリレオも望まれてはいない」・・・それが世界だと。望まれているのはEvolutionistであってRevolutionistではないのだ、と。40数年生きてきて、今ようやくわかった。
たとえローマ法王が辞任しようとも、それが世界だ。我々が生きていかねばならないBirdcageだ。