7月 122021
 

ちょうど10年前に「魔法少女まどか☆マギカ」がやっていて、俺も見てたけど、まあ普通に面白いアニメだった。けれどその後に、世間がエヴァンゲリオンみたいに不自然に盛り上げようとしてたところがあって、俺は興味深く思ってたけど、いつの間にか皆忘れてしまった。
もしあの作品が、エヴァンゲリオンのように意図的に盛り上げて皆に見せようとしてたならば、そこには何かのメッセージが込められているはずである。
今回はそれを考えてみよう。

まず第3話で巴マミという登場人物が死ぬ。その際に魔女に頭を食われて死ぬが、このシーンである。

「巴」という漢字は、蛇がとぐろを巻いているところから生まれた象形文字だと言われており、事実家紋の「巴紋」も蛇の形状をしている。であれば巴マミという人物が頭を食われて死ぬのは、蛇の頭を潰して殺す、というメタファーだと思われる。聖書にもイエスの言葉として「私は蛇の頭をかかとで砕く」とあるように、蛇という生き物はそうするしか殺す方法がない。それがこの作品の第3話である。

そして第9話では、美樹さやかという人物が魔女になり、それを佐倉杏子という人物が槍で殺し、相打ちになる。その話のエンドロールの止め絵がこれである。

美樹さやかは「癒やしの力」を身につけているので、つまり「医療」の属性がある。また「美樹」は「お神酒」と発音が同じなので、つまり「酒」の属性もある。よって医療や酒の属性を持つ神格として、インドのシヴァ神が挙げられる。そうすると、それが水の中で死んでいるので、シヴァに対応する水(海)の神というとスサノヲが挙げられる。それを殺す人物が佐倉杏子で、「佐倉」は「桜」であり、桜の花は日本の国花だから、これは日本のメタファーではないか。日本という国家が、スサノヲを殺す。
第3話で蛇が死に、第9話で日本がスサノヲを殺す。蛇は弾左衛門(俺の古代史の文章を参照)であり、それとスサノヲつまり荒神が共に死ぬ。つまり日本の被差別階級の二層が共に滅ぼされる、というモチーフである。

そして最終話で、主人公の鹿目まどかが「救済の概念」になり消えてしまうが、救済の概念である女性というのは聖母マリアのことである。「鹿目」という名字は、イエスがイスラエル十二支族のナフタリ(牝鹿をシンボルにする)の出身なのでついた名前か。

この作品の主人公は実際には暁美ほむらという人物だが、「ほむら」というのは「炎」「焔」であって、つまり火や炎のことである。それが魔獣という敵に囲まれているシーンで作品は終わるが、魔獣の「獣」というのは「JEW」であって、つまりユダヤ人である。それが炎を取り囲んでいるシーンになり、戦いはまだ続いていく、と終わる。

火や炎といって思い浮かぶのは拝火教であるが、我々は学校で「ゾロアスター教=拝火教」と習う。ずっと火を絶やさないように燃やし続ける、とか。しかし本当にゾロアスター教と拝火教は同一か?
拝火教というのは、人類にとってエポックメイキングな発見だった火を崇める思想だが、神話上で火を人類にもたらした存在というとプロメテウスが挙げられる。プロメテウスは人類に火を与え、人類を愚かなままにしようとしていた神々にそれを咎められ、罰として「岩山に鎖で繋がれ、永遠に禿鷲に内蔵を啄まれる」刑を受けることになった。
このモチーフは、明らかにゾロアスター教の鳥葬から来ている。ゾロアスター教では、塔の天辺に死体を置き、それを禿鷲に食べさせて処理させるという、鳥葬の文化がある。もしゾロアスター教と拝火教が同一なら、ゾロアスター教こそが火を人類に与えて、だからこそ鳥葬の文化があるのだ、と解釈できる。だからプロメテウスは人類に知恵を与えてくれた存在であり、一部ではルシファーと同一視されることもあるそうだ。
しかし拝火というのはそれよりも以前からある思想だと思われ、古代アーリア人に遡る原始信仰のようだ。そもそもイランというのは、南下してきたアーリア人のうち、新しい思想を持った者たちがイランに留まり、古い思想を持った者たちがそのまま南進してインドへ向かった、と言われている。
俺はあいにくイランについては詳しくない。けれど太陽崇拝やミスラ信仰など、インドとは反対の思想が多いことは知っている。インドラを極度に低い存在だとみなすこととか。そういう土壌で生まれたゾロアスター教が、果たして拝火教と同一だろうか?
「魔法少女まどか☆マギカ」が伝えたかったのは、暁美ほむらつまり拝火教のメタファーが、ユダヤ人に囲まれている、ということではなかったか。拝火教というのは、ゾロアスター教に取り囲まれて、永遠に火を消さずに助けを求めているのではないか。何となくそんな気がする。
そもそもイスラエルとイランは仇敵だと言われるけれども、実際にはアケメネス朝ペルシャがバビロン捕囚からユダヤ人を救出したので、ユダヤ人はペルシャに多大な恩を感じており、またユダヤ教のパリサイ派はペルシャと同じく「ファールス」から来た言葉だから、ユダヤ人とイランは実際には非常に強く結びついている。
ゾロアスター教徒のユダヤ人がいるとすれば「秦」で、これはペルシャの中国名だが、日本の秦氏は要するにこれである。日本の広島には彼らの秦王国があったと言われ、戦争中に広島に原爆が投下された理由はそれである。それが「魔法少女まどか☆マギカ」最終話の魔獣であって、それが暁美ほむらを取り囲んでいるというのは、彼らが拝火教を取り囲んで拘束していることのメタファーではないか・・・と思えてならない。
多くの人はゾロアスター教=拝火教だと思っていて、その結果イランは悪の枢軸と呼ばれてキリスト教世界の天敵であるが、実際にはイランという土地は何某かに占領されて利用されているだけではないか、と思えてならない。その理由が何なのかはわからない。

俺はイランやゾロアスター教については拙い知識しかないし、ゾロアスター教に関してもルーツについては諸所の説があるようだが、とりあえず「魔法少女まどか☆マギカ」という作品が何らかの隠れたメッセージを伝えようとして制作された可能性はあるよな、と思う。エヴァンゲリオンの最初の映画公開時に、バチカンが「あの内容は正しい」というメッセージを出したように。

6月 242021
 

俺の書いた古代史の文章を読んでもまーだわからない奴がいるかもしれないが、クル族、これはCRと書くべきだと述べたが、世界中の「カラ」とか「カル」とか「クラ」とか「クル」とか「ケラ」とか「ケル」とか「コラ」とか「コル」とか、そういう地名や単語、これらはみなクル族に由来する。例えば「カルタゴ」とか、「崑崙」とか、「高麗」とか、「加羅」とか、「唐」とか、「クアラ(ルンプール)」とか、「カラケス」とか、「カラカス」とか、その他いろいろ。
グルジアが元々クルジアだったのであれば、CがGに転訛するということなので、もしそうならGREECEも元はCREECEだった可能性があり、であればギリシャ文明もクル族と関連がある可能性がある。また東ゴート族の首長の名は「ケルスキー」で、これもクル族との関連が考えられ、更にゲルマンという語も元はケルマンだったとしたら、そのまま「ケル人」つまりクル族だ。つまりインド同様、クル族とアーリア人の存在が重なっているケースが見られる。
こういう論を未だに聞いたことがないが、音韻転訛法則を恣意的に操作している奴でもいるのかね?

そういえば昔買ったフライトシムのマニュアルに、第二次大戦のアメリカの撃墜王の言葉が載ってて、それが『勇気より高度が重要だ』というものだった。
俺はこれを知った時「ほぉー・・・」と思い、さすが撃墜王というのは言うことが違う、と思った。孫子の「兵法」などもいろいろ役立つ考え方が載ってて参考になるけど、この撃墜王の言葉はどんな名言よりも名言だと思う。『勇気より高度が重要だ』・・・なるほど。

 
   

6月 142021
 

また言語についてちょっと書くけど、繰り返すように、言語というのは人為的に操作されて作られるものだ。エスペラント語みたいな人造語まではいかなくても、多かれ少なかれ人間による「作為」が含まれている。特に英語は、世界標準語とすべく多くの作為・人為が施されているはずである。

例えば、数字の「7」は英語で「SEVEN」だが、このスペルを見ると「S_EVEN」となっている。つまり「Sに等しい」だ。ではSとは何かと言ったら、形状を見ればわかるように「蛇」である。SNAKEもSERPENTもSで始まる綴りなのを見てもわかる通り、「S=蛇」である。つまり「SEVEN=S_EVEN=蛇に等しい」だ。
また、数字の「11」は英語で「ELEVEN」で、「EL_EVEN」だから「ELに等しい」だ。ではELとは何かと言ったら、おそらく「神」だろう。ヘブライ語でも神はELだし、Wikipediaによると「エール(’ēl , エルとも音写)は、セム語派に於いて最も普通に用いられる神を指す言葉」だそうだ。つまり「ELEVEN=EL_EVEN=神に等しい」である。

そして数字の「9」だが、インドのスーリヤ/九耀という考え方からもわかる通り、アーリア人は9というサイクルで世界が更新されるという思想を持っている。だから印欧語族の言葉では、数詞の「9」と形容詞の「新しい」がみな似ているか同じである。スペイン語ならNUEVEとNUEVO、ドイツ語ならNEUNとNEU、サンスクリットなら両方NAVAだ(元々スーリヤは9ではなく7のサイクルだったそうだが)。

だから「9.11」というのは、「新しい神」という意味の数字列なのである。2001年9月11日に何某かがNY同時多発テロを起こした理由は、もちろんアメリカの警察の電話番号が911番だからというのもあるだろうが、それよりも「新しい神」という意味だからその日付を選んだ可能性が高い。
新しい神というのが何を意味するのか不明だが、それまでの魚座の時代から水瓶座の時代に替わり、何らかの新しい依代を見つけた者がいるのかもしれない。

更に「NAVA」というのは、英語の「NAVAL=海」の語源だと思われ、つまり「9というサイクルで世界が更新される=大洪水が起こる=世界が滅亡する」という思想と繋がっているはずだ。だから何某かは、9年というサイクルで世界を混乱させようと企んでいるのだと思う。
インドのブラフマーはバラモンの主神で、その職能は「創造=CREATE」だ。CREATEという単語は、「CR+EAT」だから、「クルが食べる」という綴りである。クルというのは龍だから、それが食べることが創造なら、つまり「巨大な龍が地球を食べる」という神話上モチーフが創造だということで、俺は思い出せないがどこかの神話にあったような気がする。

とまあこんな感じで言語にはいろいろ隠されたメッセージが含まれているのだ。いずれまた何か書くかもしれない。

6月 072021
 

俺がかねがね思っていたこととして、「悪魔崇拝者は、言語の中に虚偽を混ぜ、人々にそれとは知らずに悪魔を賛美させているのではないか」ということがある。
悪魔崇拝者は巧妙なので、人々が「神よ!」と唱えていても、実際には悪魔の名を呼んでいる、という状況を作り出しても不思議ではないと思う。これは俺の古代史の文章にも少し書いたことだ。
具体的な例を挙げよう。例えばスペイン語で、「上る/昇る/登る」という動詞は「subir」という。「私は天国へと昇りたい」なら「Yo quiero subir a paraiso.」だ。しかし動詞「ir」は「行く/go」という意味で、「subir」は見ればわかる通り「sub+ir」である。「sub」は英語の地下鉄や地下道を「subway」ということからも、地下とか下という意味である。だから「subir」なら「下に行く」という作りになっている。
だから「Yo quiero subir~」で「私は下に行きたい」という作りになっている。
つまり何を言いたいかというと、例えば神を信じる者が教会で「私は天国へと昇りたい」「私は天へと召されたい」と言いたくて「Yo quiero subir a paraiso.」と発音しても、それが「私は地獄へ行きたい」と言っているのと同じことだ、ということである。
要するに言語というのは自然発生的にできるものではなく、人の手が人為的に加わって成立するものだから、例えば悪魔崇拝者がいるとしたら、その言語の中に虚偽を混ぜ、知らないうちに悪魔を賛美させているケースがある、ということだ。
これは英語にもあることで、例えば「I believe in God.」と発音しても、言語によっては単語の語尾のdを発音しないので、「God」は「Go」になり、であればサンスクリットの「牛」を意味するのが「go」なので、つまり「私は牛を信じている」という意味になり、であれば牛神であるバールを賛美しているのと同じことになる。
言語を作った者たち(ユダヤ民族?)は世界中に散らばったから、各地の言語が互いにこのように相関関係を持って巧妙に悪魔を賛美させているケースがあるのではないか、と俺は思う。
それは日本語でもあるケースで、例えば太陽の出ている時間を「昼/ヒル」というのもその一つだろう。ヒルというのは蛭子のヒルで、つまり太陽とは真反対の月信仰側の存在だから、その発音が太陽の出ている時間を意味するというのは、明らかに虚偽である。こういうのは世界各地の言語にあるはずである。
そもそもラテン語で「キリスト」は「Christus」であるのに、スペイン語では「Cristo」で、単語の先頭に「CR」が付く。これを見ても、スペイン語を作った者たちが、その中に多くの虚偽を混ぜていることは明白だ(スペインはユダヤ人の多く住んでいた地域である)。

これに関しては俺の拙い言語に関する知識では多くはわからないし、もし追求しようと思ったら膨大な時間がかかるだろうが、まだ誰も論じたことのない問題だと思うので、いつか解明してみたい。

5月 232021
 

俺の住んでいるのは関東地方の某B級都市だが、そこにちょっと変わった神社がある。「黒砂浅間神社」というのだが、その隣に小山があって、そこに「稲毛浅間神社」という大きな神社がある。そっちの主祭神は木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)である。
黒砂浅間神社の祭神は菅原道真霊・木花咲耶姫命・八衢比古命・八衢比賣命で、関東では珍しい菅原道真を祀った神社であり、加えて天満宮ではない。
これはインドの知識のある人ならわかるだろうが、インドのシヴァ・ファミリーそのままである。福岡の太宰府天満宮では菅原道真は「菅原大自在天道真」として祀られており、自在天はシヴァであるから菅原道真はシヴァに対応し、木花咲耶姫は富士山を神格化した神なのでつまり山の神であり、これはヒマーラヤの娘であるパールヴァティーと対応する。そして八衢比古命・八衢比賣命(ヤチマタヒコノカミ・ヤチマタヒメノカミ)は、ヒコとヒメは男女を意味するから、二人の子供であるガネーシャの男女組になったいわゆる歓喜天である。

シヴァ・ファミリー

シヴァ・ファミリー

この黒砂浅間神社にはシヴァ・ファミリーがそっくりそのまま祀られているので、俺は昔からすごく興味深く思ってきた。そもそもこの神社は、昔海岸だった場所に建てられており、「黒砂」という地名にしても「クル族の砂浜」という意味だから、多分古代にインド人が船で来て神社を建てたのが起源ではないかと思う。
神社に伝えられている由来とか縁起とかは適当なのであまり当てにならないが、元々平将門の軍勢の落ち武者が住み着いたとか、別の場所に祀られていた天神社を明治時代に合祀したとか、いろいろ情報は出てくるが、もしかしたらここは菅原道真を祀った日本最古の神社じゃないかなあ。だからこそ「黒砂」なんて地名なわけだし。古代に神社が建立された後に祭神が別の場所に分祀されちゃったのを、後代の人が元に戻したんじゃないかと思う。菅原道真だけ名前の後に「霊」と付いてるし、おそらくここから菅原道真への天神信仰が広まったんではと思う。
だとしたらこれはすごく光栄なことだ。俺が学生時代を送った福岡の、学問の神様である菅原道真公、そのルーツが俺の地元にあるのであれば、俺のことを守ってくれているということだし。思い起こせばこないだ死んだ婆ちゃんが、浪人時代に太宰府天満宮の学業成就のお守りを買って送ってくれて、そのおかげで大学に入れたのだ。
そして学問の神と呼ばれながら計謀により都を追われて、太宰府の地へ左遷され、死後はその怨念で都の貴族たちを震え上がらせたという菅原道真公、その生涯もなんとなく俺の人生と通じるものがある。だからこそ俺はここに住んでいるとも言える。
この神社について知りたい方は、以下を参照されたし。
 

http://www.komainu.org/chiba/chibasi/inageku/sengen_kurosuna/sengen.html
http://blog.livedoor.jp/choko_suke_/archives/70315467.html
https://yaokami.jp/1120058/photo/rBsVWOl6/
https://ameblo.jp/masayoshi-take/entry-12162725527.html
https://ameblo.jp/fudasyosanpai/entry-12580626413.html
 

 

5月 232020
 

俺は大学でインドのことを専攻していて、その関心は常に「日猶同祖論」がベースにあった。それで今でもたまにそれ関係の本を読むこともあるんだけど、なんか昔より質が低下しているような気がする。
俺が本を探すのはアマゾンで、本屋にはもう長いこと行っていない。それでアマゾンで「日猶同祖論」で検索して出てきた本をざっと眺めてみたんだけど、なんかすごく質の低いものばかりのような気がする。
20年くらい前からか、世間では「トンデモ」なんて言葉が市民権を得て、やれこういうのはオカルトに毒されたトンデモだとか、こういうのは根拠薄弱なトンデモだとか言われるものが増えた。こういうのには気をつけねばならず、この「トンデモ」という単語を使う者は、「=自分の理解の範疇を超えているものは全て嘘」「=学校で習うこと以外は全て嘘」みたいな安直な思考に嵌まり込んでいて、逆に真実を見る機会を自分で奪っている。そもそも「トンデモ」という単語を作った者自身が、そういういわば突飛な論に関する反論のための根拠を持っていない。ただ単に「自分が信じることができないから、トンデモなのだ」という論拠で、単にレッテル貼りをしているだけだ。要するに為政者にとって都合の悪い議論を封殺するための道具に過ぎない。この「トンデモ」という単語を使う者がいたら、2種類の意味で気をつけたほうがいい。一つは「言論封殺をしている手先」であり、もう一つは「思慮の足りないバカ」だ。世の中の真理はおまえが思っているほど単純ではなく、世の中はおまえが思っているほど単純ではない。
話が脱線したが、俺は日猶同祖論の本を昔はよく読んでいて、その中にはもちろん胡散臭いものもたくさんあった。と言うより、正確に言うと、ネタ元がどこかにあって、他の本はその焼き直しみたいな感じが多かった。だから本当に役に立つ本を見つけるのには苦労したし、また日猶同祖論とは直接関係のない本からヒントを得られることもあった。
最近はああいう話題の舞台はネットに移ったようで、下手に本を探して読むよりネットを検索した方が情報が多かったりする。けれど大抵のサイトは、やはりネタ元がどこかにあって、それをコピーしただけのようなものが多いようだ。ではそのネタ元とは?というと、やはり八切止夫や鹿島昇のような人たちの本のようだ。つまりそういう人たちの本を少なからず読んだ俺にとっては、もはや焼き直しを読んでいるのと同じことで、あまり新しい発見はない。新しい説を語った情報源がないのも、「トンデモ」という単語が市民権を得た弊害なのかもしれない。
それとは関係なしに、最近YouTubeでオカルト関係(に分類される)動画を頻繁に見ているのだが、そういうのを見ても、やはり新しい発見はない。要するに、もうネタが出尽くしたということか。であればそれは、既存の情報ではそれ以上のことはわからないということである。日猶同祖論については、もうこれ以上議論する余地はなく、何も新しいことはわからないということだろうか。
では海外はどうなのかというと、かのグラハム・ハンコックが今でも新著を出していたり、そういう関係の議論は今だ続いているようだ。生憎俺は英語が苦手なので海外のサイトを読むことはないが、日本に限った話、ネット時代になってそういう議論も深化するかと思ったら逆に尻すぼみになるというのはどういうわけなのだろう。やはり「トンデモ」という単語が市民権を得て浸透したことが決定的だったのか、それともネット如きでは深い議論ができないと好事家たちが愛想を尽かしてしまったのか。20年近く前の2ちゃんねるは、もう少しマシな議論ができていたように思うけどね・・・。

8月 142019
 

「悪魔」という概念がある。古代より様々な宗教の中に登場する「悪魔」だが、単に観念的抽象的な存在ではない。
悪魔というのは端的に言ってしまえば秦氏のことである。俺の歴史に関する考察はこのブログの上部から読めるが、そこにも書いたことだが、秦氏というのはユダヤ人のダン族のことであって、蛇をシンボルマークにする。蛇が邪悪の象徴だとかいう話は置いておいても、秦氏が悪魔であるというのは疑いない。
うちの教授も認めたことだが、秦氏というのは日本では「鬼」としても表される。仏教の障碍としての存在である。その辺のことは話せば長~くなるし、歴史の考察にも書いたことなので再度書くことはここにはしない。
要するに、秦氏というのは、悪魔でもあり鬼でもある存在だ、ということだ。
秦氏というか秦氏の子孫というか、そういう存在は今の日本にも存在する。そして俺はそれをよく見かける。実社会でも、ネットの中でも、よく見かける。その理由についてはもはや知る由もないが、ある意味俺の宿命のようなものだろう。
そういう「悪魔」「鬼」を見ていると、ああ、古代から忌み嫌われてきたのはさもありなんだな、と思う。イエスが修行をしている時、悪魔が側に現れて様々な誘惑をしたというが、あれは聖書というバイアスがかかった文書なので、悪魔についても脚色している面があると思う。
俺が悪魔を見て思うのは、何千年も前から忌み嫌われて当然というか、忌み嫌われるのにはそれ相応の理由があるんだな、ということ。簡単に言えば「人間ではない生き物」なのだが、それは外見もそうだし、中身もそうだし、やっていることもそうだ。「悪魔」という語で端的に表すのが、一番手っ取り早いというか、名は体を表すというか、よく奴らを上手く表現した語だと思う。
要するに悪魔も鬼も同じなので、簡単に言ってしまえば「人類の敵」である。奴らの存在は、人類にとって害悪だ。絶滅させねばならない。奴らを絶滅させるために俺にできることがあれば、喜んで力を貸そう。
旧約聖書「創世記」の49章には、彼らについて「神よ、私はあなたの救いを待ち望む」と書かれているが、甘ったれるな、と言いたい。あんな連中に救いなど与えてやる必要はない。そんな甘い考えだから、何千年ものうのうと同じことをし続けているのである。奴らには煉獄こそ相応しい。人類に延々と害を与え続けてきたその罪は、地獄の苦痛でしか償えない。