6月 072021
 

俺がかねがね思っていたこととして、「悪魔崇拝者は、言語の中に虚偽を混ぜ、人々にそれとは知らずに悪魔を賛美させているのではないか」ということがある。
悪魔崇拝者は巧妙なので、人々が「神よ!」と唱えていても、実際には悪魔の名を呼んでいる、という状況を作り出しても不思議ではないと思う。これは俺の古代史の文章にも少し書いたことだ。
具体的な例を挙げよう。例えばスペイン語で、「上る/昇る/登る」という動詞は「subir」という。「私は天国へと昇りたい」なら「Yo quiero subir a paraiso.」だ。しかし動詞「ir」は「行く/go」という意味で、「subir」は見ればわかる通り「sub+ir」である。「sub」は英語の地下鉄や地下道を「subway」ということからも、地下とか下という意味である。だから「subir」なら「下に行く」という作りになっている。
だから「Yo quiero subir~」で「私は下に行きたい」という作りになっている。
つまり何を言いたいかというと、例えば神を信じる者が教会で「私は天国へと昇りたい」「私は天へと召されたい」と言いたくて「Yo quiero subir a paraiso.」と発音しても、それが「私は地獄へ行きたい」と言っているのと同じことだ、ということである。
要するに言語というのは自然発生的にできるものではなく、人の手が人為的に加わって成立するものだから、例えば悪魔崇拝者がいるとしたら、その言語の中に虚偽を混ぜ、知らないうちに悪魔を賛美させているケースがある、ということだ。
これは英語にもあることで、例えば「I believe in God.」と発音しても、言語によっては単語の語尾のdを発音しないので、「God」は「Go」になり、であればサンスクリットの「牛」を意味するのが「go」なので、つまり「私は牛を信じている」という意味になり、であれば牛神であるバールを賛美しているのと同じことになる。
言語を作った者たち(ユダヤ民族?)は世界中に散らばったから、各地の言語が互いにこのように相関関係を持って巧妙に悪魔を賛美させているケースがあるのではないか、と俺は思う。
それは日本語でもあるケースで、例えば太陽の出ている時間を「昼/ヒル」というのもその一つだろう。ヒルというのは蛭子のヒルで、つまり太陽とは真反対の月信仰側の存在だから、その発音が太陽の出ている時間を意味するというのは、明らかに虚偽である。こういうのは世界各地の言語にあるはずである。
そもそもラテン語で「キリスト」は「Christus」であるのに、スペイン語では「Cristo」で、単語の先頭に「CR」が付く。これを見ても、スペイン語を作った者たちが、その中に多くの虚偽を混ぜていることは明白だ(スペインはユダヤ人の多く住んでいた地域である)。

これに関しては俺の拙い言語に関する知識では多くはわからないし、もし追求しようと思ったら膨大な時間がかかるだろうが、まだ誰も論じたことのない問題だと思うので、いつか解明してみたい。

5月 232021
 

俺の住んでいるのは関東地方の某B級都市だが、そこにちょっと変わった神社がある。「黒砂浅間神社」というのだが、その隣に小山があって、そこに「稲毛浅間神社」という大きな神社がある。そっちの主祭神は木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)である。
黒砂浅間神社の祭神は菅原道真霊・木花咲耶姫命・八衢比古命・八衢比賣命で、関東では珍しい菅原道真を祀った神社であり、加えて天満宮ではない。
これはインドの知識のある人ならわかるだろうが、インドのシヴァ・ファミリーそのままである。福岡の太宰府天満宮では菅原道真は「菅原大自在天道真」として祀られており、自在天はシヴァであるから菅原道真はシヴァに対応し、木花咲耶姫は富士山を神格化した神なのでつまり山の神であり、これはヒマーラヤの娘であるパールヴァティーと対応する。そして八衢比古命・八衢比賣命(ヤチマタヒコノカミ・ヤチマタヒメノカミ)は、ヒコとヒメは男女を意味するから、二人の子供であるガネーシャの男女組になったいわゆる歓喜天である。

シヴァ・ファミリー

シヴァ・ファミリー

この黒砂浅間神社にはシヴァ・ファミリーがそっくりそのまま祀られているので、俺は昔からすごく興味深く思ってきた。そもそもこの神社は、昔海岸だった場所に建てられており、「黒砂」という地名にしても「クル族の砂浜」という意味だから、多分古代にインド人が船で来て神社を建てたのが起源ではないかと思う。
神社に伝えられている由来とか縁起とかは適当なのであまり当てにならないが、元々平将門の軍勢の落ち武者が住み着いたとか、別の場所に祀られていた天神社を明治時代に合祀したとか、いろいろ情報は出てくるが、もしかしたらここは菅原道真を祀った日本最古の神社じゃないかなあ。だからこそ「黒砂」なんて地名なわけだし。古代に神社が建立された後に祭神が別の場所に分祀されちゃったのを、後代の人が元に戻したんじゃないかと思う。菅原道真だけ名前の後に「霊」と付いてるし、おそらくここから菅原道真への天神信仰が広まったんではと思う。
だとしたらこれはすごく光栄なことだ。俺が学生時代を送った福岡の、学問の神様である菅原道真公、そのルーツが俺の地元にあるのであれば、俺のことを守ってくれているということだし。思い起こせばこないだ死んだ婆ちゃんが、浪人時代に太宰府天満宮の学業成就のお守りを買って送ってくれて、そのおかげで大学に入れたのだ。
そして学問の神と呼ばれながら計謀により都を追われて、太宰府の地へ左遷され、死後はその怨念で都の貴族たちを震え上がらせたという菅原道真公、その生涯もなんとなく俺の人生と通じるものがある。だからこそ俺はここに住んでいるとも言える。
この神社について知りたい方は、以下を参照されたし。
 

http://www.komainu.org/chiba/chibasi/inageku/sengen_kurosuna/sengen.html
http://blog.livedoor.jp/choko_suke_/archives/70315467.html
https://yaokami.jp/1120058/photo/rBsVWOl6/
https://ameblo.jp/masayoshi-take/entry-12162725527.html
https://ameblo.jp/fudasyosanpai/entry-12580626413.html
 

 

5月 232020
 

俺は大学でインドのことを専攻していて、その関心は常に「日猶同祖論」がベースにあった。それで今でもたまにそれ関係の本を読むこともあるんだけど、なんか昔より質が低下しているような気がする。
俺が本を探すのはアマゾンで、本屋にはもう長いこと行っていない。それでアマゾンで「日猶同祖論」で検索して出てきた本をざっと眺めてみたんだけど、なんかすごく質の低いものばかりのような気がする。
20年くらい前からか、世間では「トンデモ」なんて言葉が市民権を得て、やれこういうのはオカルトに毒されたトンデモだとか、こういうのは根拠薄弱なトンデモだとか言われるものが増えた。こういうのには気をつけねばならず、この「トンデモ」という単語を使う者は、「=自分の理解の範疇を超えているものは全て嘘」「=学校で習うこと以外は全て嘘」みたいな安直な思考に嵌まり込んでいて、逆に真実を見る機会を自分で奪っている。そもそも「トンデモ」という単語を作った者自身が、そういういわば突飛な論に関する反論のための根拠を持っていない。ただ単に「自分が信じることができないから、トンデモなのだ」という論拠で、単にレッテル貼りをしているだけだ。要するに為政者にとって都合の悪い議論を封殺するための道具に過ぎない。この「トンデモ」という単語を使う者がいたら、2種類の意味で気をつけたほうがいい。一つは「言論封殺をしている手先」であり、もう一つは「思慮の足りないバカ」だ。世の中の真理はおまえが思っているほど単純ではなく、世の中はおまえが思っているほど単純ではない。
話が脱線したが、俺は日猶同祖論の本を昔はよく読んでいて、その中にはもちろん胡散臭いものもたくさんあった。と言うより、正確に言うと、ネタ元がどこかにあって、他の本はその焼き直しみたいな感じが多かった。だから本当に役に立つ本を見つけるのには苦労したし、また日猶同祖論とは直接関係のない本からヒントを得られることもあった。
最近はああいう話題の舞台はネットに移ったようで、下手に本を探して読むよりネットを検索した方が情報が多かったりする。けれど大抵のサイトは、やはりネタ元がどこかにあって、それをコピーしただけのようなものが多いようだ。ではそのネタ元とは?というと、やはり八切止夫や鹿島昇のような人たちの本のようだ。つまりそういう人たちの本を少なからず読んだ俺にとっては、もはや焼き直しを読んでいるのと同じことで、あまり新しい発見はない。新しい説を語った情報源がないのも、「トンデモ」という単語が市民権を得た弊害なのかもしれない。
それとは関係なしに、最近YouTubeでオカルト関係(に分類される)動画を頻繁に見ているのだが、そういうのを見ても、やはり新しい発見はない。要するに、もうネタが出尽くしたということか。であればそれは、既存の情報ではそれ以上のことはわからないということである。日猶同祖論については、もうこれ以上議論する余地はなく、何も新しいことはわからないということだろうか。
では海外はどうなのかというと、かのグラハム・ハンコックが今でも新著を出していたり、そういう関係の議論は今だ続いているようだ。生憎俺は英語が苦手なので海外のサイトを読むことはないが、日本に限った話、ネット時代になってそういう議論も深化するかと思ったら逆に尻すぼみになるというのはどういうわけなのだろう。やはり「トンデモ」という単語が市民権を得て浸透したことが決定的だったのか、それともネット如きでは深い議論ができないと好事家たちが愛想を尽かしてしまったのか。20年近く前の2ちゃんねるは、もう少しマシな議論ができていたように思うけどね・・・。

8月 142019
 

「悪魔」という概念がある。古代より様々な宗教の中に登場する「悪魔」だが、単に観念的抽象的な存在ではない。
悪魔というのは端的に言ってしまえば秦氏のことである。俺の歴史に関する考察はこのブログの上部から読めるが、そこにも書いたことだが、秦氏というのはユダヤ人のダン族のことであって、蛇をシンボルマークにする。蛇が邪悪の象徴だとかいう話は置いておいても、秦氏が悪魔であるというのは疑いない。
うちの教授も認めたことだが、秦氏というのは日本では「鬼」としても表される。仏教の障碍としての存在である。その辺のことは話せば長~くなるし、歴史の考察にも書いたことなので再度書くことはここにはしない。
要するに、秦氏というのは、悪魔でもあり鬼でもある存在だ、ということだ。
秦氏というか秦氏の子孫というか、そういう存在は今の日本にも存在する。そして俺はそれをよく見かける。実社会でも、ネットの中でも、よく見かける。その理由についてはもはや知る由もないが、ある意味俺の宿命のようなものだろう。
そういう「悪魔」「鬼」を見ていると、ああ、古代から忌み嫌われてきたのはさもありなんだな、と思う。イエスが修行をしている時、悪魔が側に現れて様々な誘惑をしたというが、あれは聖書というバイアスがかかった文書なので、悪魔についても脚色している面があると思う。
俺が悪魔を見て思うのは、何千年も前から忌み嫌われて当然というか、忌み嫌われるのにはそれ相応の理由があるんだな、ということ。簡単に言えば「人間ではない生き物」なのだが、それは外見もそうだし、中身もそうだし、やっていることもそうだ。「悪魔」という語で端的に表すのが、一番手っ取り早いというか、名は体を表すというか、よく奴らを上手く表現した語だと思う。
要するに悪魔も鬼も同じなので、簡単に言ってしまえば「人類の敵」である。奴らの存在は、人類にとって害悪だ。絶滅させねばならない。奴らを絶滅させるために俺にできることがあれば、喜んで力を貸そう。
旧約聖書「創世記」の49章には、彼らについて「神よ、私はあなたの救いを待ち望む」と書かれているが、甘ったれるな、と言いたい。あんな連中に救いなど与えてやる必要はない。そんな甘い考えだから、何千年ものうのうと同じことをし続けているのである。奴らには煉獄こそ相応しい。人類に延々と害を与え続けてきたその罪は、地獄の苦痛でしか償えない。

7月 252018
 

いわゆる「日猶同祖論」というのがあって、俺はこれを学生時代からずっと考えていたのだが、その辺は「古代史関連」のページにも記述してあるので参照のこと。
南米に行った時に巻き込まれた一連の騒動や、俺を2013年に取り巻いた動きなどから、俺がこの問題に深入りしすぎたことは間違いない。気づかないうちに、その中心として振る舞うことさえ強要されたこともある、この「日猶同祖論」。昨夜寝ながら考えていたが、いくつか新しく考えついたことがある。
それは、明治維新だ。明治維新というのは不思議な現象で、何故か東洋の小国だった日本が、欧米列強に植民地化されることもなく近代化を果たし、列強の一角に食い込んだという、摩訶不思議なイベントであった。何故、日本が植民地化されなかったのか。幕末の志士や薩長土肥の資金はどこから出ていたのか、そういうのは今でも謎らしい。
俺が思ったのは、薩長土肥というのは、要するに日猶同祖論から見てのユダヤ人の土地であったということだ。薩摩は家紋が「丸に十字紋」つまり「十字架」だ。そして鹿児島という地名も「加護」から来ている。肥前つまり佐賀は、その眼前に有明海があり、おそらく「有明」というのは「アーリヤ」の漢訳だろう。長州と土佐もユダヤの痕跡があるはずだ。
古代に「白丁(ペクチョン)」というのがおり、これは隼人の一種だと言われる。そして白丁は日本の穢多と同じだとも言われる。実際、隼人の薩摩と弾左衛門が密通していたことはよく知られている。ユダヤ人は海洋民族だから、日本にも大勢が来ていたはずであり、薩長土肥と弾左衛門がそれぞれ何族だったか、俺は弾左衛門はダン族だったと確信しているが、他はわからない。
江戸城は本来の名前を千代田城といい、徳川家は千代田族と言われる。弾左衛門つまり穢多は、江戸時代に徳川家の下につき体制の一部だったから、つまりダン族は千代田族と結びついていた。千代田族は福島の会津を拠点にしていた。だから明治維新軍は会津を最後に攻撃したのである。俺は穢多≒秦氏だと思っているが、ユダヤ人というのは、各部族間で抗争があったはずである。つまり薩長土肥のユダヤ勢力と、それに敵対する千代田族・ダン族という構図があったと思う。弾左衛門=穢多≒秦氏=ダン族なら、これは「秦」だから、要するにペルシャであって、今のイランである。だから日本の同和は北朝鮮と繋がっていて、北朝鮮はイランと繋がっている--とまあ、スケールの大きな話になってしまうが、今回はここでやめておこう。
俺の日猶同祖論に関する考え方は、おそらく世界でも最も核心を突いたものなのだろう。だからこそ以前あんなことがあったのだ。俺はちっぽけな人間に過ぎないが、図らずもいくつかのことを成してしまった、それが俺の使命なのか、まだ俺の出番はあるのか。

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7月 222018
 

かねがね思うのは、ユダヤ人というのは何でも自分たちの都合のいいように考えるんだな~ということ。聖書を読んでもそう。そもそもイエスは堕落したユダヤ人を戒めるために現れたのに、自分たちを救いに来たとか都合のいい存在に祭り上げている。
そして「アバドン」もそうだ。これは新約聖書のヨハネの黙示録で、世界が終末を迎える時にその終末をもたらすものを指す。それはアポリオンとかアポリュオンとか呼ばれ、ユダヤ人は例によって都合よく解釈し、やれ「アポロンが自分の倒したピュトーンと同一視され零落した姿」とか「サタンと同一視されている」とかバカなことを言っている。
そしてそれは現在のWikipediaでも同様で、「アバドン」の項を見ると、以下のように書かれている。

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アバドン(Abaddon)とは、『ヨハネの黙示録』に登場する奈落の王で、ヘブライ語で「破壊の場」「滅ぼす者」「奈落の底」を意味する。日本語では「アバドーン」とも表記される。
5番目の天使がラッパを吹く時に、「馬に似て金の冠をかぶり、翼と蠍の尾を持つ」姿で蝗の群れを率いる天使として現れ、人々に死さえ許されない5ヶ月間の苦しみを与えるという。蝗害が神格化されたものだと考えられている。
また奈落の主とも言われ、奈落の鍵を管理していて、千年の間サタンを閉じこめていた。
キリスト教などでは堕天使の一人とされ、ルシファーと同一視されることもある。
一般的には悪魔としてのイメージが強くサタン、サマエルと同一視されることもある。また悪魔の支配階級としてではなく、底無しの穴、深淵などの同義語として使用されることもある。
ギリシア語では「破壊者」を意味するアポリュオン(Apollyon) 、アポリオン(Apollion)、アポルオン(Apollon)と呼ばれており、一説ではギリシア神話におけるアポローン(Apollon)が自ら打ち倒したピュートーンと同一視されることによって零落した姿とも言われている。
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俺はかねがね、ネット世界の学問分野におけるレベルの低さを嘆いてきたのだが、それはWikipediaも全く同様である。全くもってレベルが低い。
10年ほど前、メル・ギブソン監督の「パッション」という映画があり、あれはつまり「イエスは十字架では死ななかった」ということを主張していた。ちょっと書くと、当時の十字架刑というのは本来釘を手首に打つ。そして足場を外すと手首に体重がかかって大出血を起こし即死する。けれどあの映画でも、イエスは掌に釘を打たれていた。つまりイエスは十字架では死ななかったのだ。それが結末の、立ち上がって歩き出すイエスという形で表現されていた。

アバドンの真実を書くと、イエスが現れた当時、パレスチナを統治していたのはローマ帝国だった。その最高神は太陽神アポロンだった。何故アバドンがアポロンと書かれるかというと、イエスの弟子である使徒ヨハネが、師イエスを殺そうとした同胞ユダヤ民族に対する天罰を、ローマ帝国の最高神アポロンに祈ったからである。「ローマの最高神たる太陽神アポロンよ、愚かな同胞ユダヤ民族に対し、どうか天罰を与え給え、アーメン」。だからアポロンの名に由来する言葉が、終末をもたらすものなのである。

これが真実だ。俺はWikipediaの「アバドン」の項に度々このことを追記してきたのだが、その度に何者かによって削除され、それでもしつこく追記していたところ、昨日アクセスブロックされてしまった。・・・ああ、レベルが低い。そしてユダヤ人は相変わらず何でも自分たちの都合のいいようにしか考えない。それが、俺が教会にあまり行きたくない理由の一つでもあるのだが。

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5月 142013
 

俺は教会に通っている。正確に言うと、たまに礼拝に行く。思い起こせば、10年前、何となく行き始めた。当時「ろくなことがないなあ」と思い、「けど神様っているはずだよなあ」とも思い、家の近くにある教会に、ふらっと行き始めた。礼拝は日曜日の朝10時半からなので、早起きが嫌いな俺は正直めんどい。だから本当に気が向いた時にだけ、礼拝に行くようになった。んで「せっかくだし」と思い、気軽な気持ちで洗礼も受けた。
礼拝には牧師の説教というのがあるが、正直俺はあまり真面目に聞いていない。また賛美歌もめんどくさいのであまりちゃんと歌っていない。あと礼拝式文という礼拝の台本みたいなのがあるが、それに載っている文言もちゃんと発音していない。俺は特に、この礼拝式文というのが気に食わない。なぜなら、その内容が『間違ったことを発音させるための』内容だからだ。「我々は生まれながら罪深く、穢れに満ち」とか「みたみイスラエルの栄光です」とか「ポンテオ・ピラトの元に苦しみを受け」とか、明らかにおかしなことが多く書かれている。「我々は生まれながら罪深く~」というのは明らかにグノーシス的な文言だし、「みたみイスラエルの~」というが我々はイスラエル人に忠誠を誓っているのではない。また映画「パッション」を観ればわかることだがポンテオ・ピラトは賢人だった。悪いのはイスラエル領主ヘロデ・アンティパスとパリサイ派に扇動されたイスラエル人民衆だ。要するに俺の教会の礼拝式文には、ユダヤ人にとって都合のいい内容を我々信徒に発音させるための文言ばかり書いてある。だから俺は、礼拝の時ほとんどちゃんと発音していない。
パラグアイにいた時、“自称”宣教師である人物と知り合った。彼と話していてわかったが、日本のキリスト教徒の中には、自分たちがユダヤ人の末裔であるという自覚を持って生きている者が確実にいる。そしてそういう新興宗教も存在する。ある時彼と話していたら、彼は「イエス様は、僕達にもう一度会いに来てくれるんですよ!」と目を輝かせて言った。それは本当に疑いなくそう思っている目の輝きだった。だから俺は「だって2000年前に一度会いに来てくれたんでしょ。だったら次に来る時は、おまえらは一度言ってもわからんようだからもう滅ぼしてやるーって来るんじゃないですか」と答えた。すると彼は目を輝かし「いやとにかく、もう一度会いに来てくれるんですよ!!」と言った。この男はパラグアイがどんな国なのかわかりすぎるほどよくわかっていて、それで尚そこに溶け込もうとしている人物だった。ある時彼は俺にこう言った。「パラグアイは本っ当にどうしようもない国なんだ!!けどそこで生きていくためには、仕方がないんだ!!皆そうやって生きているんだ!!」 彼がこう言った時、俺には「悪魔の歓喜」に見えた。
キリスト教で、イエスが「悔い改めよ!」と言ったという。この台詞はとても有名であり、イエスの代名詞とも言える。けれど実際には「REPENT!」なので、「後悔せよ!」である。そう、イエスは元々「改める」チャンスなど与えてはくれなかったのだ。ただ「悔いよ!」とのみ言ったのだ。それは、前述の“自称”宣教師を見ていればわかる。彼は多分、どんなに汚れていても、再び神様が現れて浄化してくれるから許されるのだ、とか、まーわからんけどそういう都合のいい考えを持っているんだろうね。そして「自分たち」ユダヤ人は迫害されているとか思い込んでいる。実際には、ただ嫌われているだけなのに。
聖書の一番最後に載っている「ヨハネの黙示録」に、アポリオンとアバドンというのが出てくる。これは俺はわかっているが、正義の太陽神アポロが、腐った奴らを奈落に叩き堕とすのだと、そういうことだ。イエスが現れた時、イスラエルはローマ帝国の統治下にあった。そのローマの最高神アポロが、腐った者どもを奈落に叩き堕とす。それがアバドンだ。ではその腐った者というのは、一体誰なんだろうね。