仏教≒フロイト思想

長年ユング派と称する心理学の連中に付き纏われてたのでどうしてもそれを考慮に入れてしまうが、彼らの基本は「似たようなものは偶然である」。言うまでもなく共時性(synchronicity)は「似たものが複数現れるのは偶然」「別地域の神話が似ているのは普遍的無意識によるもの」という主張で、その詳説は知る必要もないが、要するに2つの似たものに因果関係はないという考え方。
反してフロイト理論は、物事には必ず起因する理由があると考える。何にでもルーツがある、つまり因果が存在するという考え方。両者を比べたら、前者は一言で言えばオカルトである。事象には必ず理由や由来があるのは言うまでもないのに、何でもかんでも「それは偶然だ」「似たようなものはどこでも現れるのだ」と主張し、ではその理論・理屈の「理由・由来」とは何ですか、と問うても答えられない。フロイトは科学でユングはオカルトと海外で言われる所以である。

そして仏教の根本思想も縁起説と因果説であり、物事にはルーツがあると考える。だが古代インドにおいてバラモンという魔術師が社会システムの頂点にいてまさにオカルトを根本原理にして支配していたわけで、それは科学的摂理の反対である。中村元は「特に初期の大乗仏教は、呪術魔法を排斥し合理主義的な思想をもって社会を変革しようとし、そのために一般民衆に向かって訴えた」と述べるが、つまり古代の未開な呪術的原理の社会において、本来の仏教はオカルト的でなく論理的な主張を民衆に対しストレートに述べていた。だから「物事には必ずルーツがある」という縁起説と因果説をその根幹におき、それは現在の(日本の)仏教寺院における呪術まじない的な要素とは真逆だった。
そして同時に智慧の獲得を重視したが、これはグノーシス的な智恵ではなく、無知の打破つまり「一部の人間による知識の独占を許すな」という主張だった。ブッダは覚者と訳され額の第三の目は智慧に目覚めた印とされるが、それはグノーシス的な呪術魔法に開眼したという意味でなく、古代の未開社会において「無知を打破する」という意味での、智慧の獲得を意味していた。
以上から、仏教は本来極めて合理主義的なロジカルな思想だったわけである。

小乗仏教と大乗仏教の正体はよくわからないが、ネパール北西部にラマ山という未踏峰があり、「ラマ」がもともと古代イスラエルの宗教職であったこと、ラーマ王子と発音が同じでタイのアユタヤ王朝が「アヨーディヤー」の音写だという説があること、チベット仏教がラマ教と称されること、それらとお釈迦様がネパール出身であるという定説がどう関連するのか?そしてSMRに由来する須弥山思想。
戦時中のドイツのようにいつの間にか内部からヤツラに侵食されて本来の姿を捻じ曲げられ悪者にされてしまった例もあるし、仏教もおそらく後世にデタラメや誤謬が大量に付記されて本来の教えからかけ離れたものになったはず。ゆえにインドでは仏教はいつしか存在意義を失い消えてしまった。だが中村元が著書の巻末にほんのちょっとだけ書いてくれてた内容から、本来の仏教は極めて科学的かつ論理的な「フロイト思想」的な教えだっただろうと推測できる。

日本のユング派の拠点は京都大学、日本仏教の中枢があるのも京都、それが古都でありバラモンの都。

小市民ですが、何か?

まあねえ、成り行きでこんなことになったけど、自分はそもそも学生時代に研究職に就きたかっただけで、だから院進しようとしてたのに学校ぐるみで意地悪されて研究室をカラッポにされてしまい、やむなく他大の別専攻の院を受けるも落ち、結果的に学部卒に。その後もどこかの院に入ろうと思いはしたものの金もないし、仕方なく適当に本読んだりネットに考えをまとめてただけ。
アルゼンチンのゲバラ生家に行ったのも「せっかく南米に来たんだし」的に軽い気持ちで行っただけで、別に活動家でもなんでもない。思想なんてのもないし特に大志もない。ただ「自分の人生を邪魔する奴の正体を暴く」のを目的にしていただけ、という。
だから早く普通の人生にならんかなと。仕事はしたくないけど金は欲しいし、人付き合いは嫌いだけど彼女は欲しい。目立つのは嫌いだけど栄誉は欲しいし、八百長は嫌いだけど認められたい。誰でもそうじゃね。俺は小市民的思考の人間なのでフツーの市民として成功したいな、と。

とりま生保生活から脱出するのに1年2年掛かりそう。早くしないと加齢でチ◯コ勃たなくなっちゃうよ!

”奴隷薬”は実在する?

「イスラエル秘密捜査事件の真相」というブログがある。
https://nobuaki22.seesaa.net/
http://www5e.biglobe.ne.jp/~NOBUAKI/

ここで「奴隷薬」というのが取り上げられている。
日本の精神科はとにかく「薬を飲むことを金科玉条にする」が、当然「なぜ向精神薬を飲まねばならないのか?」と疑問を持つ人間(患者)もいる。だが気がつくと皆が飲むようになる。俺自身の経験から言うと、通院を繰り返すうちに、いつの間にか「疑いを抱くことができなくなる」というか「精神的な抵抗力を削がれてしまう」感じだった。つまり医師の言いなりになるという「精神的奴隷化」をされていた印象。
上記のブログの内容は虚偽が意図的に混入されているようだが、実際「奴隷薬」は存在する、というのが俺の意見である。それは向精神薬、おそらく一種類や二種類ではないだろうが、それに”ある成分”が含まれていて、それを服用することで「他人に反論する意思が削がれてしまう」「他人に反抗する意欲が削がれてしまう」ようになり、結果的に精神的な奴隷にされ医師の言いなりになってしまう・・・そういう”成分”があるはず。それがイコール奴隷薬だろう。

日本の精神科医が「薬を飲むことを金科玉条にする」のは周知の事実で、仮に飲まない者(患者)がいたら、例によって病院に家族と一緒に呼び出して飲むことを強制したり、家族に命じて本人の食事にコッソリ混ぜさせたり、無論「言うことを聞かないから」という理由で強制入院させたり、ありとあらゆる手段を使って飲むことを強制する。言うまでもなく「向精神薬を飲まねばならない法的義務は存在しない」がそんなのはお構いなし。

日本が精神医学界や薬剤メーカーの食い物・実験場にされているのは、世界の精神病床の25%が集中していることからも自明で、もちろん風俗店で強制売春を強いられたりAV出演を強制されている女性が精神病になっているケースも多いし、以前「うつはこころの風邪。悩みがあったらすぐ病院へ」などと国民に精神科通院を奨励するTVCMを放映していたのを見ても、国を挙げて精神医学界にご奉仕する体制。なにせ「統合失調症は100人に一人が発症する」というとんでもない与太話を公式にアナウンスしている国である。
以前述べたように、薬剤メーカーはフランスとスイスの「社会ダーウィニズム/優生学派閥」が強いので、その利益のための餌場になっているのが日本国である。広義の意味で覚醒剤もドラッグも「薬剤」だが、MEDICINEの語源である一族との関連など知らん。市民に言うことを聞かせたいならそれこそ「奴隷薬」を使うだろうし、精神病患者で実験するのも自然だろう。

あの日、空が紫色に染まった

ずっと好きな女の顔が、今も思い出せない。
ただシルエットが脳裏に浮かぶのみ。そして着ていたあの服と。
宇宙を駆ける列車の乗客のように「青春の幻影」として、ただ。
記憶の囚人、思い出の囚われ人。
若かりし青春の日々の、美しき幻影。
その佇まいはまるで白百合の如く。
 

「思い出は美しすぎて」って何の歌の歌詞だっけ。
ホラ男は名前をつけて保存で、女は上書き保存っていう、アレ。もっとも俺の場合は名前をつけて保存してZIP圧縮してパスワード保護までしてるけど、向こうはそもそも新規保存すらしてないかもね。
冷酷(cruel)なのは常に女。女々しいのは得てして男の方。
青春の幻影・・・メーテルは「いつか私が帰ってきて、あなたの傍にいても、あなたは私に気が付かないでしょうね。私は、あなたの想い出の中にだけいる女」、同じ時間を繰り返してそこに戻ってきても、彼女は「あなたは誰なの?」「もう一つの人生で、君がよく知っていた男だよ」と。
そして僕たちは踊る。

肯定と否定

日本の神話体系は太陽神が女神であるのが特徴で、極めてユニーク。女性太陽神を主神とする神話体系は他地域と反対なので、いろいろな面で世界の他の国と逆の価値観になってることがある。

特に言語つまり人間文化の一番の基本の、その中でも一番基本である「肯定と否定」の発声が逆になってるのが不思議だ。例えば英語で「肯定=YES=イェス」で、発音上は「イェー」でも「ヤー」でも通じる。けれど日本語でこの発音だと「いいえ」とか「嫌ー」という否定になる。また「否定=NO=ノー」だが、日本語では「能」は「よく」とか「あたう」という肯定的な語である。このように言語において一番の基本の「肯定と否定」の発声が、概念/コンセプトの上でそもそも英語と日本語は逆であるのがとても不思議だ。
また同じ印欧語のスペイン語で「肯定=Sí=シー」だが、日本語なら「死」と同じ発音で当然否定的な語だから、やはりスペイン語とも価値観が逆である。

発声学とか言語学の知識はないけど、原初の発声の起源から根本的に概念が逆だったのか?と昔から不思議に思っている。

「法」=水が引く?

諸説あるかもだけど、CHINAの語源はCHINつまり秦で、始皇帝が自身を朕と自称したのもCHINより。その呼称を使っている者がどこかにいるとして、以前5chに「◯◯は苗字がないが、本当は『徐』という苗字だ」とあったが真偽不明。その「徐」に海の神である七福神の「福」で、徐福。秦の始皇帝の子分だが、蓬莱山伝説は日本各地にあるという。

「始皇帝は『法』による支配を推し進めた」というが別にフェアな法治国家を目指したとかではない。「法」はインドならダルマ(dharma)と訳されるが、果たして社会システムのLAWと同義かどうか、多分違うだろう。始皇帝による「法」とは皇帝が法を作るもので、普通の法治国家とは違うらしい。性善説=孔子、性悪説=韓非子だが、後者の法家思想とどう違うのか。
よく為政者が「法による支配~」とアピールするがこの辺がミソで、フェアにルールに基づいて物事が判断されるのとは異なるようで。だから今回イスラエルの司法制度改革が難航している最中に中東紛争が起きたり。
ちなみに「法」の部首は「サンズイに去る」だから、水が引くみたいな意味?なら古代に大洪水が起こり水が引いた後~のような意味だろうか(想像)。

そして「法」といえば気になるのが、魔術師として有名なアレイスター・クロウリーの「法の書」。読んだことないがこの人物に傾倒するミュージシャンが極めて多いことで有名。「カシミール」を書いたレッド・ツェッペリンも傾倒してたのは知られる。