④ガネーシャとイエス

インドにおける月神ガネーシャ

インドにおいてシュードラというカーストがあり「奴隷」と訳すことは高校でも習うしよく知られている。前回述べたように、奴隷である以上ご主人様がおり、それはアーリア人であるが、「シュードラは黒い」と言われまた世界のスタンダードとして色の黒い民族=社会の下層であるので、シュードラが非アーリアンであり土着系である可能性は極めて高いと言える。
インドの神々はそれぞれ多くの化身(アヴァターラ)を持ち各々の神が様々な要素を吸収しているが、シュードラ=奴隷カーストの主神はガネーシャであると言ってしまうことに特に異論は無いと思う。ガネーシャは有名な神で、頭が象で体が太鼓腹の人間の姿をした神である。現在では「知恵と利益の神」「学問と商売の神」としてとても人気があるが、反面「崇拝を怠ると恐ろしい罰を与える神」という側面も持っている。「ガネーシャ」「ガナパティ」共に同じで、「群衆の主」という意味である。
なぜ頭が象になったか、という理由としては幾つかのエピソードがあるが、その中で興味深いと思われるのは、九耀(スーリヤ)のシャニに関する話である。「シャニがあまりにもクリシュナを崇拝しすぎていたため、その妻が妬み彼を邪視(=EVIL EYE)にしてしまった。そのためシヴァとパールバティーの間に産まれたばかりのガネーシャをシャニが見たら、ガネーシャの首が飛んでいってしまったので、やむなく象の首を代わりに付けた」というものである。
シャニは九耀では「土星」であり、シャニ=SUNNYであり、クリシュナ崇拝者で土星=土=アダムということで、「クリシュナ=太陽=土=アダム」と結びつく。またガネーシャの首が象になった原因であるので、ガネーシャが恨みを抱く対象でもある。ガネーシャは仏教の天部の一人でありゆえにDEVAであるが、「聖天」「歓喜天」と呼ばれる。DEVAである以上月信仰側の神であるが、それが九耀のシャニと反目する関係にある。ここでも太陽信仰と月信仰の対立を見ることが出来る。
インドにおけるガネーシャの別名は「魔人の主」で、前回述べたように「シュードラ=ヒドラ」であるから、ヒドラの主である。ガネーシャには「十字路の神」という側面もあり、悪魔崇拝のサバトとの関連もあるので、やはり魔人の主という別名には正当性がある。「十字路=CROSS」であり、前回述べた幾つかの言葉と同様「CR」が付く。
付け加えると、サンスクリットで蛇のことを「NAGA」というが、NAGAという語には「象」という意味もある。

日本における賤民とガネーシャ

密教において象頭の二人の人間が抱き合っている像があるが、あれが歓喜天であり、セクシャリズム・性的祭祀を教義とするいわば秘教的なセクトで用いられると言われる。日本でガネーシャを祀った場所、つまり聖天が祀られている場所は少なくないようであり、例えば奈良県の生駒山とか、浅草の待乳山などがそうである。インドにおいても奴隷カーストの神であったが、日本においても賤民の信仰の対象になっているケースは少なくないと思われる。
ガネーシャの異名である「ガナパティ」を漢字で書くと「我那鉢底」であり「ガナハチ」と読む。いわゆる「八の民」の「ハチ」の語源は定かではなく、八ヶ岳の八ではないかとか托鉢僧の持つ御鉢の鉢ではないかとか、また「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った山中鹿之助の蜂屋衆もハチがつくとかいろいろな説があるが、どれもいわゆる賤民と関係があるといって差し支えない。仏教国の日本でもガネーシャつまり聖天は当然下層の民衆の信仰の対象だったはずであるから、「ガナハチ」から「ハチ=八」になった可能性もあるだろう。
インド神話の一つによれば、「ガネーシャはパールバティーが自分の垢から作った」ということになっている。この「あか」という言葉・発音であるが、まず「あか=赤」でありCRIMSONである。また仏教に「あか棚」というのがあり水を入れるそうだが、日本の漁民の間で古くから(海)水のことを「あか」と呼んでいたという説があるので、「あか=AQUA」でもある。つまり赤い色を崇拝し尚且つ海や水と関連のあった人々がいたなら、同じ発音である「垢」でできたガネーシャと関連があることは不思議ではない。発音が同じ言葉は何らかの関連があるという考え方は基本であるからだ。もしそのような人々がいたとすれば、平氏などはかなり関連性が疑われて然るべきだろう。平氏のポジションや存在というのも大変複雑で難しいが、彼らは海民と繋がりがあり赤旗をシンボルにし、また「驕る平家は久しからず」という発想はバラモン教と大変近いと思われる。
ちなみに「朝」つまり「MORNING」のことを「暁=あかつき」というが、これが「赤月」ならば文字通り「RED MOON」であり、イランの古代語でアサ(アシャ)は火・法・正義の意味である。「MOONING=月であること」が「MORNING」になったのなら大変面白い。

油を注がれる者

インドにおいて、ガネーシャは祀られる際に「ギー」という油を注がれることが知られている。ガネーシャの像の頭から油をかけて祀る風習は現在でも残っていて、また歓喜天にも油を注ぐ教義が存在する。大変興味深いことだが、ヘブライ語の「メシア」も「油を注がれる者」という意味である。ガネーシャはインドの(人間だと見なされている上から4つのカーストの中での)最下層カーストの主神、ヘブライ人は要するにユダヤ人であるがイエスを輩出した民族である。
日猶同祖論の是非はこの際置いておいて、基本的に世の中がヒエラルキーだとすると、日本においても最下層は賤民で最も数が多いことになり、彼らの信仰の対象としてガネーシャが存在したことは否定出来まい。部落解放同盟という団体があるが、この団体のシンボルは「荊冠旗」であり、イエスが処刑される際に被せられた物がシンボルになっている。彼らがなぜこのマークを採用しているのかはともかく、仮に彼らが何らかの形でユダヤ人・ヘブライ人と関係があり、尚且つガネーシャを崇拝する思想を持っているのなら、共に「油を注がれる」という要素でイエスとガネーシャは結び付く。
キリスト教のシンボルは十字架=CROSSだが、この単語のスペルにもCRが付き、もちろん十字架というオブジェのルーツを考えれば一概にクル族やガネーシャと関連付けるのは難しいかもしれないが、結局「賤しい人々の中から現れた者が世を救う」という発想はここでも肯定され得るわけである。

[2008/09/23]

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