⑧海から救われし者達

地球の一点で思考を廻らせる行為

私がインドの概念や制度を念頭に入れつつ他地域のそれらについて考えても、それらが全て実体験に基づくものだとはいえない。私は日本でプロテスタント系の教会へ通っていたが、世界中の各(キリスト教)教会でどのような教義やコンセプトがベースになっているのか、また各派のそれらの差異の詳細までは知らない。よって「概ね~~だろう」という考えしか現在は持っていない。また、インド亜大陸が一つの概念でまとまっていてその中に種々の教派やセクトがあり、皆が対立摩擦を抱えながら基本的に一つのものとしてまとまっているのか、それともその中で恒常的に深刻な対立があるのか、私はインド訪問の経験が無いため実経験としては知らない。よってあくまでも「概ね~~だろう」という推測に過ぎない。これは現在の時点ではほとんど全てにおいて当てはまる。けれどもちろんそれは他のほとんど全ての人々も同様である。

各地の共時性もしくは各地への伝播

インドの三大神はヴィシュヌ・シヴァ・ブラフマーだが、これらの職能はそれぞれ「維持」「破壊」「創造」である。つまりブラフマーが世界を創造しヴィシュヌがそれを維持しシヴァはそれを破壊(しようと)する、という構図である。インドの最初の支配はアーリア人によって成立し、彼らの信仰はバラモン(教)だったゆえ、創造神はブラフマーになっている。それから数千年間現在に至るまでアーリア人が基本的にその位置にいるとすると、彼らの支配構造(?)を維持しているのがヴィシュヌということになり、それを脅かし破壊しようとするのがシヴァということになる。この三神の天体的対応は「ヴィシュヌ=太陽」「シヴァ=月」なのは言うまでもないが、ブラフマーは地球と思われる。インドの絵画でこれらが描かれる際、ヴィシュヌの臍から臍の緒のように伸びた紐の先に、小さなブラフマーが描かれる。これは「太陽の周りを衛星として小さな地球が周っている」概念だろうから、つまりこの三神はそれぞれ太陽・月・地球に相当する。
太陽が善なる支配者であり月がそれに対する障碍であるというのは特に珍しくない概念だと思う。しかしこれはあくまでも建前としての概念であり、よって公にこれを否定する考えを述べる者は見られない。実際大抵の古代宗教でも太陽信仰を謳っている。例えば「神が水の中の龍を三叉矛で刺し殺す」モチーフは各地の神話に見られるが、これは朝鮮半島やアフリカまた新大陸の神話にもあるらしく、インドにもあるモチーフだ。殺される側の「水の中の龍」として有名なバビロニア神話のティアマトは女でそれを殺すマルドゥクは男であり、ヘブライ神話のヤーウェとレヴィアタンもそれぞれ男と女だ(といわれる)が、インドにおいては「殺す側=女」で「殺される龍(牛)=男」と逆になっている。殺されたのは牛の姿をとったアスラで、ドゥルガー/カーリー/パールバティーは皆DEVA=月神側のグループに属する。他地域の神話を見ると「殺す側=太陽」で「殺された龍=月」のようだが、インドでは両者が月でその仲違いの末に片方が殺される、という形だと思われる。
どの生物でも必ず女が男を産むので、地母神つまり大地が女ならそこから産まれるのは男だ。旧約聖書のアダムは大地の土から産まれた男、ギリシャ神話でも地母神はヘラで女である。日本神話では太陽神がアマテラスで女だが地母神はいない(はずだ)。イザナギの黄泉訪問のエピソードがギリシャ神話と対応(酷似)しているのは有名だが、ギリシャでは「太陽=男神アポロ/地母神=女神ヘラ/冥界=男神ハデス」なのに対し、日本では「太陽=女神アマテラス/冥界=女神イザナミ」で、地神がいない。海神はギリシャが男神ポセイドンで日本が男神スサノヲであり、月神はギリシャが女神アルテミスで日本はツクヨミだが、ツクヨミの性別は定説が無いらしい。イザナギが黄泉から戻り筑紫で禊祓いをした際にその右目・左目・鼻からそれぞれツクヨミ・アマテラス・スサノヲが産まれたとされるが、つまり日本においては「月=右/太陽=左」でその下に海があるとなっている。インドでは右手は握手や食事をするための手だが左手は汚物を拭くための不浄の手とされ、同じ語族の英語ではrightは正義と権利をlightは光を意味する。また鼻は花と発音が同じで、花という字に源氏の「一族郎党」の郎を加えれば花郎になる。バビロニアのティアマトは「海中の女の龍」だが、これら各地の神話・神格に明確な属性法則のようなものがあるのかどうかは知らない。ただ日本において地神が明確でないのは興味深い。
インドでは龍を殺す際に使われた三叉矛はシヴァの三叉戟らしいが、以前述べたようにシヴァに付随する種々のシンボルは現在世界のあちこちでばらばらに存在している。それらのうち月(三日月)はイスラム教のシンボルで、その聖典のコーランは発音上はクルアーンで「CR-AN」であり、「天の月」と近似する。また三叉戟(三叉矛)は、現代のヨーロッパのジプシーがその巡礼を行う際に携えるといわれ、彼らは聖書に登場する「黒いサラ」を崇拝する。彼らの自称は「ROM」「ROMA」で、インドを北上した印欧語族だとみなされているらしいが、製鉄族の側面もあり、ローマ神話の製鉄神はボルケイヌス(VULCAN)だが、東ヨーロッパで狼をVOLKといい、この綴りはドイツ語では国民を意味する。ロムルス・レムルスが狼に育てられたのは言うまでもないが、これらの関連については不明である。他のシヴァのシンボルには蛇と牛があるが、つまり両者は同一のグループだとみてよかろう。インドラとシヴァは共に暴風雨神・天候神の要素を持ち同一ライン上に位置するので、両者は共に雷をその武器として持ち「金剛杵(ヴァジュラ)」と呼ばれる。またヤーウェもバールも天候神で「雲に乗る」といわれるが、スサノヲは「八雲立つ」出雲を拠点とする神である。スサノヲは海原の支配者で、秦氏のハタは古代朝鮮語のパタ=海に由来するといわれ、日本では「海神」と書いて「わたつみ」と読む。海神ポセイドンもネプチューンも三叉矛を持つが、これは海の妖怪トリトンや現在の悪魔のシンボルとしても定着している。
そしてシヴァ、というよりインドの(全てではない)神々に付随するものとして、額の第三の目がある。これは仏教のお釈迦様の額のほくろと同じで神秘・真理の象徴(またはそれを見るもの?)といえるだろうが、チベットの寺院にはそれを象徴した意匠が多いらしい。もしシヴァに付随する要素が各地に散らばった=それを崇める者たちが各地に散らばったのなら、第三の目も一緒にどこかへ行った筈であり、よく話題に挙がる「フリーメーソンの”真実の目”」はその遺宝かもしれない。

■余談だが、よくいわれるように「世界(ユーラシア大陸)の西の方では龍・ドラゴンは悪なのに、東の方では善」というのがある。もっといえば東の中華思想の影響地域では、龍は天に在る神聖な神(の使い)だとみなされている、と概ねいえるはずだ。インドにおいて「水の中の龍を殺すエピソード」が龍ではなく牛を殺すことになっており、また牛崇拝が角やバール崇拝と関連がある以上「龍≒牛」と考えられるため、中華思想では龍が天に在り、またギリシャでもゼウスが牡牛の姿をとり天から降るつまり牛が天に在るというコンセプトなので、両社は共通している(※インドのその説話では「牛=アスラ」なのでやはりイランとの関連が考えられる)。つまり東の方では龍は神聖な存在で、西の方では龍が邪悪の象徴である代わりに牛が神聖な存在であると概ねいえ、だとしたら龍と牛の明確な区別・定義が必要だろうが、私には判りかねる。ちなみに英雄サムソンの説話で知られるダゴンだが、英単語の龍=DRAGONのRを母音として発音しなければダゴンである(サンスクリットでRは母音)。また古代イスラエルでヤーウェとアブラクサスへの信仰が混同していた時期もあったらしいが詳細は知らない。

存在外の概念と既存概念内のヒント

現在の世界における「教育≒概ね共通認識である概念の定着化」において存在しない考え方や概念というのはいろいろあり、当然その中には事実が存在するが、それを時間に比例してに着々と解明していく行為というのは為されなかったし為されない。だが既存の一般的概念内にもいろいろなヒントや示唆が存在することは多々ある。
例えばインドにおいて牛は聖なる動物だが、これはアーリア人が来る以前から存在した概念かどうか疑わしい。古代においても(その最上位に位置する?)バラモンたちは、牛を食べその力を自らのものにせんとする慣習を持っていたらしい。もしその慣習が現在もあるならば、牛を殺す=屠殺する(カーストの)人々は、最大の悪(とされている行為)を犯すことを知りながら制度上それに従わざるを得ず、たとえ生まれ変わろうとその悪徳により再びそのカーストに生まれなければならないという、無限に最下層に留まり続ける思考を持ちながら生きねばならない。その輪廻転生という概念が論理的科学的に証明できなくとも、それが「事実である」とされてから数千年間、彼らは常に最下層に在る(はずだ)。結局「生まれ変わればなんとかなるさ」という思考は、イコール「社会を変えるのではなく生まれ変わってもっといい暮らしができることを願おう」と同義で、これは「人生は一度きりだし自らの子孫の為に社会を改善せねばならない」という思考の真反対である。つまり前者の「生まれ変わって改善されたい」というのは『=輪廻転生思想』である。よってインドにおいてこの概念が事実であるとされてから、その忌むべきカースト(ヴァルナ=色)制度を無くそうとする者はおらず、皆「生まれ変わればもっと良くなるかもしれない」という諦めの中で最悪の社会制度を維持してきた。それが間違いであるという概念が存在しなければ改善という発想も存在し得ない例である。
日本での例を挙げると、神社の境内に巨大な注連縄が掛かっているケースがある。ある者は「注連縄は蛇の象徴である」と述べるが、出雲大社や三輪神社には掛けてあるが伊勢神宮や宇佐八幡宮には無い。私の印象では天津神系の神社には無く国津神系の神社にあるような気がするが確証は無い。出雲大社が元々、以前述べた「日本列島における最初の層」の拠点であり、その人々が「アラハバキ=荒蛇斬=荒ぶる蛇を斬る神」を崇拝していたのなら、インドで牛を崇める者たちがその肉を食べその力を取り入れようとしたように、彼らも神が倒した強大な蛇をそこに祀り崇めたのかもしれない。もしくは伊勢神宮と宇佐八幡宮に掛けず出雲に掛けてあるのは、両者が別系統であると主張せんがためであるかもしれないが、それはもはや象徴的な意味合いでありこれらの神社は皆一つのまとまりの中に入っているのが現状のはずで、何故なら現在の出雲は最初期の勢力下にはないはずだからだ。象徴=シンボルだが、世界のどこでも自身の痕跡を抹消するという行為は誰もとらないので、例えば日本なら神紋や家紋などのシンボルの中にその痕跡を残しているケースもある。よってもし注連縄が蛇を意味するなら、それが掛かっている神社と掛かっていない神社では必ずしも信徒の考え方が異なる、とは即断できない。一目瞭然なオブジェとして巨大な注連縄が掛かっていればそれはその信徒の主張ととれるが、掛かっていなくても単に偽り隠すためかもしれないからだ。例えば巴紋は蛇をシンボライズした紋章だという説があるが、宇佐八幡宮の神紋は巴紋であり、また三種の神器の「勾玉」は巴紋と同じ形状である。また大韓民国の国旗は「二つ巴」で、赤い蛇と青い蛇がお互いの尾を噛むようなデザインだが、この二つ巴三つ巴などの複数巴紋は、グノーシスのシンボルであるウロボロスと同一コンセプトの可能性がある。また日本にはアオダイショウという蛇がいて「アオ/青」が何を意味するのか不明だが、現在の青森県=アオの森には十和田湖があり、これは「十の和田=十のワタ/ワダ/パタ/秦」だろうが、周辺には有名なキリストの墓伝説がある。インドのシヴァは「ニーラカンタ=青い喉」という異名があり、喉が青い理由として蛇に噛まれたとか蛇の毒を飲んだとかいわれるらしいが、つまり青≒蛇のことだろうか。だとすれば蛇を崇める者たちが集まっていた湖のある森を青森と名付けたのかもしれない。また沖縄の古語で蛇をヘブルというが、日本の北端と南端に同一要素が分移したというのは二重構造モデルの骨子である。このように紋章や国旗や名詞などの中にも、再考すべきヒントはいろいろ存在する。
他にもインドにおける概念に、例えば象頭の神ガネーシャがネズミを乗り物にするというのがある。ガネーシャの要素には謎が多いが、奴隷カーストの主神であり魔人=ヒドラの長である象神がなぜネズミに乗るのか。インドにおいてネズミは太陽の使いとされるが、ガネーシャは月神なので太陽の使いをその下に敷く理由を考えると二つの可能性がある。一つは「1.太陽信仰の者たちが月神側に寝返って下についた」もう一つは「2.魔人が太陽信仰の者たちを踏みつけている」である。前者であればクル族の要素・属性が釈然としないことと関連付き「=堕天した者たちは神の傍から悪の側へ堕ちた」と考えられ、後者なら「=月に負けた太陽の使いが最下層にされた」と考えられる。干支の一番目はネズミで、そうなった理由を説明した説話には「牛の頭に乗って上手く利用し自分が一番の座を横取りした」とあるが、その説話ではネズミが愚かな牛をいいように利用している。つまり呉越同舟といわれるように、この両者は基本的に相反する存在だが、付かず離れずのように共存してきたと思われる。よって私は上記の二つのうち1=悪の側に寝返ったと解釈するし、魔人がネズミを下に敷くのは、日本で仁王象が鬼を踏みつけるのと類似したコンセプトだと思う。
また前述したようにジプシーは自称を「ROM」「ROMA」というが、当然ローマ帝国もROMAと書く。日本人神学者のある著作によれば「ポンテオ・ピラトは賢人だったが、当時の堕落したイスラエル王(ヘロデ・アンティパス)と、パリサイ派に扇動されたその民衆により、やむなくイエスを磔刑に処さるを得なかった」と書かれている。また数年前のメル・ギブソン監督の映画「パッション」も全く同様の内容である。だが(少なくとも私の通った教会では)ポンテオ・ピラトこそイエス処刑の張本人だとみなされているようだ。つまり事実がどうあれ、JESUSを殺したのはローマ総督のピラトだとなっており、つまりROMAが殺したとされている(※ローマの始祖は狼に育てられた兄弟だが、イスラエル12氏族のうちベニヤミン族は狼をシンボル(トーテム?)にする)。ジプシーの言語で「神=DEVEL」だが、彼らは三叉矛を「黒いサラの巡礼」の際に携えるといわれ、そのオブジェは現在悪魔のシンボル・武器である。そしてそれを用い水の中の龍を殺す神の神話が世界各地にある。ジプシーが印欧語族で製鉄族でもあるなら、結局ヒッタイトが関係してくるように思うが、今の私にはわからない。製鉄と「一つ目」の関連はどこでも共通だろうし日本も同様だが、前述の「(フリーメーソンの)真実の目」はこちらに由来するかもしれない。

維持か救済か

冒頭で述べたがインド三大神の職能は創造・維持・破壊である。もしこれをそのまま時系列順に並べると、ブラフマーつまりバラモンが造った地球を太陽であるヴィシュヌが維持し、それをシヴァが月から壊そうとする、となる。このコンセプトは古代からのいろいろな場所でのコンセプトと、共時性ではなく伝播性を持っている。極論すれば、共時性なんてものは「みんな偶然」と片付けることで、伝播性のように「ルーツ・原因を探って究明しよう」と思考せんとする発想とは真反対の、智を放棄した考え方である。よってこの「創造→維持→破壊」というコンセプトと、同時に「輪廻転生思想」という再生思想が基本であるインドにおいて、アーリア人/バラモンがその支配者でありみんなそこから他の場所へ伝播していったと考えるなら、現在の地球(≠世界)の主人達は今現在の社会の状態をずっと維持したいと思っていて、しかしいつかそれは破壊されるが、再び自らの手によって創造されしばらく維持されて、いつかまた壊されても再度創造され…と思っているのかもしれない。
英語の動詞「SAVE」はスペイン語では「SALVAR」で、これが「~する者」と変化すればそれぞれ「SAVIOR」「SALVADOR」になる。英単語のSAVIORは救世主と訳されるが、スペイン語のSALVARは「サルベージする」ことなので「SALVADOR=救う者」であると同時に「SALVADOR=水から救い上げる者」である。つまり以前述べた「モーセ/秦河勝/ヒルコ」と同じコンセプトだ。またSAVEもSALVARも「守る/保存する/保つ=維持する」という意味を同時に持つ。したがって、以前述べたように各言語は相関関係を持つケースがあるので、英語でもスペイン語でも「救世主/救ってくれる者」は「維持してくれる者」と同義である。つまりこれらの言語のコンセプトにおいては、今現在の社会の状態を維持してくれる者こそ救世主である、ということだ。これらの言語は元々一つの祖語でインドの言語も同じである。それらを話す人々が元々一つであり神への概念も基本的に同じだから、インドにおいて「太陽神が今の世の中つまり差別社会を維持しているのだ」という『嘘の概念』が事実化されている以上、インドから各地へ伝播したなら地球の主人達は皆その状態を維持したがっていてそれをしてくれる者を救済者だとみなしている、ということだろう。そして彼らにとってそれが誰かといえば、文字通り「水から救い上げる」という名を持つ者だろう。彼らは元々水の中にいた龍だったのかもしれないし、大洪水で全てが水没した時に海を漂ったことがあるのかもしれない。彼らが船から飛ばした鳩は何色だったろう?
私はサンスクリットや他の古代語におけるSAVEやSALVARに対応する語を知らないが、今の世界標準語では前述の通りだ。英語のLIBERTYもスペイン語のLIBERTADも「釈放/解放」の意味を持つので、結局FREEDOM足り得ない者たちは、何かしらの枷にはめられているという妄想から抜け切れないのだろう。解脱という概念は彼らにとって正に言い得て妙である。しかしヴィシュヌは実際には何もしておらず、その中に隠された色の黒い本当の太陽神に何もさせず「REMAIN」にしておくための隠れ蓑であるから、いつか本当の太陽神がRE-MAINつまり再び主になる、のかもしれない。
「誰かと比較して救われた状態にする」なら相対的救済に過ぎないが、「全ての人々を救う」なら絶対的救済である。救うというのでなく幸せにするのが主の役目だろうと私は思う。

[2009/06/22]

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